「ふう……」

大きく息を吐いて、それからたくさん周りの空気を吸った。


思った以上の速度で進行している樹の抱える病、認知症。医師の方に聞いても、やはり、私や家族や友人のことを忘れてしまう事になるのも時間の問題だと言う。

もちろん、このまま進行が止まったり遅くなったりする、なんてこともなくはないけれど、それは本当に稀なケース。


今、私の目の前にあるこの部屋に入って、樹が私の事を忘れていたら……そう思うと、気が気じゃない。

とても怖い。怖くて、足が重くなる。

こんな風にして私は、毎日病室の前で立ち尽くして、何度も心の準備をしてから部屋に入っていく。


「……よし」


何度も深呼吸を繰り返した私が、部屋へと一歩踏み込んだ。すると、一番奥にあるベッドに寝ている樹がこちらに顔を向けた。


「……あ、キョンキョン」


樹の言葉に私は安堵した。さっきまでの早く打っていた脈は一気に落ち着き、私の表情筋も柔らかくなったような気がする。


「プリン買ってきたよ」


そう言ってレジ袋からプリンを取り出すと、樹は嬉しそうに笑った。