希望に満ち溢れたボクとは対照的に、迎えのビルにいる彼女は怪訝そうな顔をした。
軽いため息を吐くと彼女はボクに背を向けて建物の中に入って行った。

「待って!!!」

ボクは大声で叫んだ。
その声が彼女に届かなかったのか無視されたのか、彼女は戻って来なかった。

ボクは彼女を追いかけることにした。
フェンスの柵を飛び越えて、向かいのビルに飛び移れたら、どんなに良かったか。
屋上に上るエレベーターを待てないほど、ボクの気持ちは焦っていた。
ひたすら、ぐるぐると階段を駆け降り、彼女の元へ急いだ。息は切れ、鼓動が次第に早くなる。息苦しさでこのまま死んでしまうかも、一瞬そんな事が頭の中を過ったが、彼女の為に会う為ならそのぐらいの犠牲を払っても構わないと思った。
ようやく地上にたどり着き、建物から出るとグラっとした。
地上には顔を黒く塗りつぶされた人で溢れている。
屋上から地上に一気に駆け降りた疲労と顔が見えない恐怖で気を失いそうになったが、彼女の顔が浮かんで何とか耐えた。
『彼女に会いたい』
頭の中にはそれしかなかった。
彼女がいる建物に向かおうとするボクに信号が立ち塞がった。
早く、早く青になれ!そう念じる中、デパートから彼女が出てきた。
こんな人ごみの中、普通の人なら見つけられないかもしれない。
でも、人の顔が見えないボクにとっては漆黒の中で光る星を探すようなものだった。
信号が変わり、彼女の元に駆け寄る。

「待って!待ってください!」

叫びながら、彼女の肩を掴んだ。
その様子に周囲の人々が立ち止まり振り返ったが、顔の見えないボクには恥じらいすら感じなかった。彼女は違ったようで、顔を赤らめた。
立ち止まった人々の流れが動き出すのと同時に彼女の表情も恥じらいの顔から迷惑そうな表情に変わった。
何か言わないと・・・彼女の肩から慌てて手を放した。

「あの、た・・・助けてください。」

どうして、この言葉が出たのか分からない。
まるで、もう一つの人格が存在するかのように自然とその言葉が出た。
その言葉に、彼女の眉間のしわがさらに深くなった気がした。
だが、すぐに諦めた顔をして肩を落とした。

「なんか、おごってよ!」

棘のある言い方だったが、彼女が立ち止まってくれた喜びでボクはそんな事が気にならなかった。
彼女に導かれるまま、近くのファーストフード店に入った。
ファーストフード店は嫌いだ。この気軽さと手軽さのせいで、いつも人がいる。
ずっと避けてきたが彼女が決めた以上、ボクは従うしかなかった。
席に着くなり、彼女は注文したハンバーガーを食べ始めた。

「で、何?」

口をモグモグさせながら彼女が睨む。
その顔から『これを食べ終わるまでに話済ませろ』という事だろう。
何を話せばいいんだろう?何から話せば・・・考えれば考えるほど混乱した。

「顔が見えないんです。あなた以外・・・。」

ボクは率直に話を切り出した。
冷静に考えれば頭がおかしいと思われるだけなのに、その時のボクは唯一、顔が見える彼女にすがりたかった。

「あっそ、いつから?」

ボクの顔が見えない発言を受け止めた?予想と違った答えにボクは真っ白になった。
そもそも、ボクはいつから顔が見えないんだろう。それすら思い出せなかった。

ボクにある一番古い記憶は弟が生まれた頃の記憶で、ボクだけに優しかった母が背を向けた時だ。ボクが何かしても褒めてくれない。抱きしめて欲しいのに、その腕の中にいるのはいつも弟がいる。そんな小さなボクの記憶。
最近の記憶は思い出すと胸が痛くなる。
ずっと、憧れていた人がボクにはいた。仕事もできて優しくて、その人の事が好きだった。ボクの事を褒めてくれて、脈があると思っていた。その人に会うのが楽しみで仕事も頑張ったし、その人に相応しい人になりたくて努力もした。でも、その人が選んだのは、仕事もできないルックスだけが取り柄の後輩だった。悲しい失恋の記憶。

ボクは正直にその事を彼女に話した。
みじめに思われる事は分かっているが救われたい気持ちが強かった。
彼女は、黙ってボクの話を聞いてくれた。
食べ終わった彼女は立ち上がった。

「ついてきて。」

そう言うと、ボクらは店を後にした。
ボクは言われた通り、彼女の後について行った。
ボクの前を歩く彼女の背中を見ていたせいか、ここまで、どういう道を通ってきたか分からない。何も考えずに誰かについていくのは楽だ。このまま、何も考えず彼女についていけたらいいのに。そんな事を思いながら歩いていると路地裏に来ていた。
先程の人通りの激しい街並みが嘘のような静かな通り。立ち並ぶ雑居ビルの1つの地下に進んでいった。