分かっていて、何も言わなかった。口で言うよりも、弾いて証明して見せた方が良いと、きっとそう思ったんだ。
私より大きくてごつごつとした手。でも、他の男の人より細くて白い手はとても綺麗。その手が奏でる甘く柔らかいピアノの音の一番の虜は私だと思う。
「いつものでいいかな」
返事なんて聞く気はないのだろう。彼はすぐに弾き始めた。白と黒の世界の上で、朔良の手が躍る。弾かれた鍵盤が、ハンマーを叩いて弦が震え、空気に伝わる。
たったそれだけのことなのに、弾く人によってどんな音にも聞こえるピアノは不思議だ。ううん、ただ空気が振動するだけのことなのに、どうしてこんなにも音楽は心を揺さぶるんだろう。
朔良が『いつもの』と言った曲は、この前私が走って音楽室に来た時と同じ曲だった。朔良のお気に入りの曲。でも、私が同じくらいこの曲を好きなことを朔良は知っている。
二人の大切な曲。いつも朔良が弾くこの曲は素敵だけど、いつもより暖かくて、柔らかくて、春のお日様が顔を出しているみたいだった。
「良かった......」
音楽が終わって、ピアノから手を落とした時、本当に小さく呟いただけだったのに気付いたらしい。此方を見て、嬉しそうに笑った。
「双葉のお陰だよ。ありがとう」
嗚呼、狡い。本当に朔良は狡いんだ。私がその言葉を聞くのが嬉しいことを知っている。それを聞けば、また私が世話を焼くことを知っている。
それを分かっていても、その罠に嵌まることを選ぶ私のなんと滑稽なことか。どれだけ苦しくても君の傍を離れられない。
「どーいたしまして。じゃあ、ピアノも聞けたことだし、そろそろ本当に帰ろうか」
「そうだね」
今度こそ、ピアノを片付けてリュックを背負った朔良と一緒に音楽室を後にした。


