『佑梨、今日は午後休診でしょ?何かしてたの?』
「美鈴とランチだよ。買い物とかして、今駅から歩いてるところ」
『あらそう〜、美鈴ちゃん元気だった?』
「うん、相変わらず」
『今日ね、敦史くんが来たのよ〜』
あまりにも普通の会話の中に「敦史」というワードがサラッと入ってきたため、私は一瞬「へぇ〜、そうなんだ」なんて返してしまいそうになってしまった。
ドキン、と胸のあたりが疼いて、深い霧が立ち込めるような感覚に陥る。
あぁ、苦しい。
彼の名前を聞いただけでこんなに胸が苦しくなるなんて。
私はまだ何も変わってないんだ。
だけど母にその気持ちを悟られてはいけないと思って、なるべく淡々と「ふーん」とだけつぶやいた。
『入籍しました、って奥さん連れてきたの。琴美さん、っていうんですって。小柄で可愛らしくて敦史くんにピッタリでね……』
「へぇ〜」
『ほら、敦史くんのご両親、旦那さんの都合で海外に住んでるじゃない?だからそのままうちの隣に敦史くん夫婦が住むらしいのよ。佑梨にも会いたいって言ってたし、今度こっちに帰ってきたらいいんじゃないの?』
「…………忙しくて帰れないよ」
母が言っている敦史の情報は、私がすでに彼自身から聞いていた話だった。
琴美という恋人がいることも、その人と結婚することにしたということも、春に入籍するということも、両親が海外に住んでいてマンションが空いているからそこに2人で住むということも。
でも、「佑梨にも会いたい」は聞いてない。
「会いたい」なんて言わないでほしかった。
『もう、佑梨ったら。去年の秋から一人暮らし始めて1度もうちに帰ってこないじゃないの!お父さんも寂しがってるわよ?』
プンスカ怒りながら口を尖らせている母の姿が容易に想像できてしまう。
母は私と違って非常に分かりやすい性格だ。
喜怒哀楽はハッキリ示すし、思ったこともすぐ口にする。
私は喜怒哀楽はなるべく曖昧にして、思ったことは1度自分の中で咀嚼してから口にする。