結局私は、見学に行ったその日、秋月さんの書道教室に通うことを決めた。

 並河(なみかわ)君が秋月さんと付き合っていると知り、彼女の経営する教室が一気に居心地の悪い場所になったのもたしかだけど、とある生徒さんの一言で通う気になってしまった。

 最初、私に話しかけてきたおばあさん…箱崎(はこさき)さんの言葉だった。

「結婚してるならなおさら、自宅と職場以外の居場所を作った方がいいわよ。自分だけの空間って本当に大切だもの」

 実感がこもった言い方だった。

 箱崎さんは、結婚後じょじょに友達付き合いも減り、旦那さん主体の人間関係が増えたことでストレスに苛まれ心身の調子を崩したことがあるそうだ。それが、書道教室に通いだしてからは気持ちに余裕が出て、色んなことが順調に行くようになったという。

 箱崎さんは今年70歳になるらしい。だいぶ年上の女性なので価値観も違うだろうし、彼女の結婚生活の苦しみ全ては知らないけど、彼女の言いたいことはとてもよく分かった。

 「嫁は強い」と言われる私達の世代では考えられないほど、箱崎さんは「嫁の立場は弱い」という経験を多くされたのだと思う。


 箱崎さんと私の会話を聞いていた秋月さんは、自分はまだ独身だと言い、苦笑した。

「結婚生活は色々大変なことも多いみたいですよね。でも、好きな人と結婚できたら幸せな気持ちになれることも多いんだろうなと、私は思います」

 柔らかい表情でそう言う秋月さんを見て、並河君との結婚生活を想像して言っているのかなと思った。