「いい匂いだ。ここにいた頃のことを思い出すな。あずきの舌触りも先代に引けをとらない。ただ、すこし、おまえのほうが甘みが弱いか」
「もうすぐ春だもの。このくらいかなぁと思って」
「まぁ、悪くはないな」
かすかにほころんだ目元が急にしかめられたかと思うと、吉川さんはひとつあくびをして潤んだ目を瞬かせた。
「寝てないんですか?」
吉川さんは小さく笑って、
「店に出すもん以外で甘いものを食べたのが久しぶりだったからだ。染みるよ」
お金を取る以上、安易に心を解放して味わうことはできないし、してはいけないということだろうか。
いかにも吉川さんらしいし、それこそが経営者としての当然の姿なのかもしれない。
今のこの、今にもなにかが剥がれ落ちそうに切なく穏やかな表情を見ていると、佐希子は猛烈に不安な気持ちに駆られると同時に、自分の稚拙な嫌がらせを悔いた。

