「ただいまー」

がらがらとスーツケースを押して入ると、自分の部屋なのになんだか落ち着かない気分になった。
閉めきっていたせいか、空気もよどんでいる。
私はコートを着たまま、あの日、慌てて荷造りをして出ていったきりの部屋の中を見回した。

「あーあ」

幸福の木は枯れてしまっていた。
当然だ。
三週間も水をあげてなかったのだから。
まっすぐな太い幹から生えた、その大きな葉っぱをやさしくなでる。

正式名称はドラセナ。
花言葉は『幸福』『幸せな恋』そして『名もなき寂寥(せきりょう)』

茶色くなった葉っぱに一粒の涙が当たって落ちた。

ぽた。

その音を聞いた瞬間、私を支えていたなにかが崩れ落ちた気がした。

ぽた、ぽた、ぽた、ぽた。

私は声を出して泣いた。
いつかのように、床につっぷして。

当たり前だけと。
あの日のように、夏生はいない。

背中をなでてくれた、温かくて大きな手のひらも。
私がどんなひどいことを言っても、優しく返してくれた声も。
心配そうに覗き込んでくれた瞳も。

なにもかもが、終わってしまった。

夏生はいない。

夏生は、いない。

「あーあ」

どれくらい泣いていたのだろう。
泣きつかれて、私はごろりと床に寝そべった。
コートのポケットに手を入れると、中のものを取り出して眺める。

夏生の部屋の合鍵。

返そうと思ったのに。
荷造りをしている時も、家を出る時も、タクシーを待っている間も、乗り込む時も。
いくらだって、返す時間はあったのに。

返せなかった。
いや、返さなかった。

「こんなもの持って帰ってくるなんて、私ただのやばい人」

つぶやいて、またポケットになおした。

目を閉じる。

「夏生、私ね、夏生の本当の恋人になりたいの」

言えなかった言葉を口に出してみたら、目尻からまた涙がこぼれて床に小さな水溜まりができた。