『ハナコ』

あ、冬馬くんだ。

なんかまだ初々しい。きっと出会ったばかりの頃、多分ニドメマシテの時。


お互いに新入生で初めて彼の鼻をみたわたしはしばらく開いた口が塞がらなかった。

見たことない"艶やか"な鼻。

わたしの中で"綺麗"のリンちゃんはよりも。"美しい"のオードリー・ヘップバーンよりも。

そして私は彼を見上げながら言ってしまったのだった。

わたし、はながすきなんだよね。

そうしてヤツがかましてきたハジメマシテの台詞に、わたしは猛烈にヤツへの好感度を下げたのだ。
まあ、確かに今考えればいきなりそんなことを言いだす女の方が失礼なものなのだろうけれど。

ニドメマシテの時は向こうから近づいてきたのだった。

どこからか聞きつけたのか、わたしが鼻を好きであるという情報を持って。

『ハナコ』

そう呼ばれたときは、なんて失礼な、と苛立ちを感じはしたけれど、正直嬉しい気持ちもあった。だって"艶やか"な鼻が向こうから近づいてくるんだもの。
ハジメマシテで下がっていた好感度は、ニドメマシテであっさりと上がった。しかも急上昇。なんてこった。

それから、どっかしらで出くわすと話す、いや絡まれるようになって。

その頻度は一週間に一度、からお互いに時間割をなんとなく把握しはじめて、3日に一度。最近では、ほぼ毎日会っている。親友のリンちゃんより多く。


『ハナコ』

いや、だからわたしは鼻子じゃない。
春子だよ。冬馬くん。


『凛子』

…どうして?
なんで?リンちゃんはあだ名で呼ばないの?

『冬馬くん』

"綺麗"な鼻のリンちゃんと"艶やか"な鼻の冬馬くんが並ぶ。
なんてお似合い。なんて、お似合いなの。

反転した私の顔。
良く言えば大人しそう。悪く言えば根暗そう。
鼻は下の下。春子式お鼻評価にかすりもしない。
笑ってみる。とびきり明るい気分で。
うん、なんとか見れる。少し、溌剌さが増して、優しそう、ノリは悪くない、そんな感じに。
鼻はやっと下の上くらい。

顔の中心に構える鼻は、顔の表情を変えるだけで全く違って見えるのだ。


『ハナコ、ハナコ』

ぼんやりとした声が、次第に重みを帯びてくる。
どんどん冬馬くんの本物の声に近づいていく。

『ハナコ』

冬馬くん。
わたしは、


「春子」



耳に入った呼び名に飛び起きた。
声の主は、わたしの方を見て驚いて固まっているようだった。

わたしは少し可笑しくなる。
何時もはあんなに五月蝿くて迷惑極まりない男なのに。

「ハナコ」

あれ、さっきのは聞き間違いだったっけ、ってくらい自然に出たわたしのあだ名。


あーあ、呼んでくれないのか。


「さっきはごめんね。ありがとう、ここまで運んでくれて」

今に限って喋らない男は、こちらをじっと見る。
さっきからなんでか掌が暑い。

「いやー、お礼のメールでも送ろうと思ったんだけどさ、メアド知らなくてさー」

はははと笑う。
せめて優しい顔に。鼻は下の上に見えてますように。

「ありがとう、わざわざお見舞い?っていうのか、これ。まあ、来てくれてありがとう」



「ハナコ」

向こうが喋らないから、わたしがこうして場を盛り上げようとしているのに、なんだ。どうして遮る。

「ハナコ、こっち向いてよ」

ぐっと手を引かれて、ああ、手を握られていたんだ、とようやくわかった。
でも、なんで?

体だけ近づくけれど、わたしは頑として顔を見ない。
いやだ。見たくない。


「春子」

え。

ふ、と顔を上げてしまった。
ああなんて安い女。名前を呼ばれただけで従ってしまうなんて。

「春子、俺はいつもはあんまり真面目じゃないけど、これだけは真面目に言いたい」

春子。春子。
ああ、二回も読んでくれた。
間近に見える"艶やか"な鼻が更にキラキラと輝いて見える。


「春子、俺と、結婚して」


三回目。
ふふ、春子、だって。真面目な顔しちゃってさ…って。

ちょっと待って。
この男今、なんて言った。
普段から失礼非常識極まりない男が、なにを言った。


「春子、結婚して」

至極真面目な顔つきで、ヤツが言う。
結婚って。あの結婚か。市役所に出しに行くあれか。
色々飛びすぎなのはこの男らしいけれど。

ヤツの鼻が、さっきよりも綺羅綺羅しく"艶やか"になっている。
わたしの名前を呼んだ時よりも。

ああ、そうか。そっか。そうなんだ。

わたしがとびきり嬉しいんだ。
あんなにして欲しかった名前呼びよりもずっと。


「いいよ」


返事は考えずにするっと出た。
いいよ、だって。ふふ、我ながら軽すぎる。

真面目な顔をしていた冬馬くんはわたしの顔をしばし見つめ、そうして言った。

「メアド、交換しよう」