女性が自殺した現場は騒然としていた。
数台のパトカーと救急車が道路を占領していた。
マンションからけたたましく泣く赤ちゃんを抱いた警察官が出て来た。
「大輝…。」
女性が惹かれる様に足を進めた。
立ち入り禁止のテープが張られた空間に椋は行けず、テープの前でそれを見ていた。
女性は泣き止まない我が子のそばに行くと、優しい顔で赤ちゃんの頬に触れた。
その瞬間ピタリと泣き止み何もない空間に手を伸ばした。
それは、真っ直ぐ母親に伸ばされた手だった。

赤ちゃんを抱いた警察官はそのまま救急車に乗り込んだ。
女性もまたその後に着いて行った。
残された椋はひとまず帰る事にした。
とりあえず女性の事は唯一母親って事だけしか、わからない。
名前もわからなければ、自ら命を絶った理由もいまいちわかっていない。
虐待したくないから死んだ…彼女の言った言葉がずっと渦を巻いて心に広がる。
どうゆう意味なのか椋は理解出来ずにいた。

家に着いて椋はすぐにテレビをつけた。
夕方のニュースに何か出てないかと思ったが、これといって目立ったニュースはなかった。
部屋に戻ってパソコンを開いた。
検索に【自殺 女性】と場所を打ち込んだ。
今はやっぱりネット社会なんだと思った。
色んな目撃者のコメントが画面に連なっている。
その中に隣人と名乗っている人がご丁寧に女性の事を書いていた。
その人は女性宅は毎日赤ちゃんの泣き声が聞こえ迷惑してた。とか、連日怒鳴り声がしてた。とか、どこからどこまでが嘘か本当かわからない情報が書いてあった。
もし、この人が言う通りだとしたら、やっぱり虐待だったのではないかと思った。
けれど下に画面をスクロールしていくと、引っかかるコメントもあった。
【それって虐待?育児放棄?産後鬱?】
産後鬱??
椋はすぐに検索にかけた。
【産後に発症する うつ病。10%~20%に生じるとされている。一日中気分が沈む。日常生活で興味や喜びが感じられない。赤ちゃんに何の感情も湧かない。食欲不振、体重軽減、不眠などになる。】
もしこれだったとしたら?
あの窶れた様な姿も納得出来る?
それに彼女が言った言葉にもこの理由なら、当てはまる気がした。

一階から母親が帰って来る音がした。
椋は部屋を出た。
「あっ椋…帰ってたのね。あんた知ってる?そこのマンションで飛び降り自殺あったんだって!スーパーで買い物してる時、話してるの聞いちゃった。」
そう言いながら靴を脱いでる母親の後ろに、控えめにその彼女が立っていた。
「あっそうなんだ…。」
母さんの後ろに居てるよ。とは間違っても言えなかった。
「なんでも産後うつだったみたい。」
「へぇ。」
椋は母親から買い物袋を受け取ると台所に行った。
彼女は玄関に居たまま動かない。
「それが、旦那さんが育児に協力的じゃなかったみたいで、奥さんにも暴力振るうような人だったんだって。」
玄関に居る彼女は俯いたままでいる。
「それは酷いね…。」
椋は買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら返事をした。
「可哀想で仕方がないわ。」
「うん。そうだね。あっこれ飲んでいい?」
買ってきた中にコーラが入っていた。
「あぁいいわよ。」
「ありがとう。じゃ僕勉強してくるね。」
そう言ってコーラを持って二階に向かった。
「晩御飯になったら呼んで。」
「はいはい。勉強頑張って。」
「うん。」
椋は母親に聞こえない様に彼女に着いて来てと告げた。
彼女は小さく頷いて椋の後ろを歩いた。
部屋に入る椋は椅子に座った。
「適当に座って下さい。」
彼女は静かにドアの前に座った。
「じゃまずは自己紹介。僕は神倉 椋と言います。貴女の名前は何ですか?」
「三笠 亜弓です。」
今にも消えそうな声だった。
「年齢は?」
「来週19歳になる。」
「じゃ今は18歳ですか…僕が言うのもなんですが、若いお母さんだったんですね。」
亜弓は頷いた。
「三笠さんは…」
「亜弓でいい…。」
「じゃ亜弓さん…さっき僕の母親が言っていた事はhどこまでが本当ですか?」
「全部。自分が産後うつじゃないかって思ってネットで調べたら完璧にそうだと確信した。それにあの人は、殆ど毎日私を殴ってた。」
「理由は?」
「私達できちゃった婚だったんだけど、別れる手前で私が妊娠してる事がわかって仕方がなく結婚したの…向こうの両親も私の両親も世間体を気にして…あの人は大輝が産まれて一度も抱いた事がないの。可愛いなんて思えないって言って…。だからあの子が泣けば泣き止ませろって私殴ってた。最初は私、あの子をちゃんと愛してた。可愛いって思ってた。でも、次第にそれが本当の気持ちなのかわからなくなっていったの。今では何をしても憎くて仕方がなくなって…さっき泣き止んでくれないあの子を…私…。」
亜弓は自分の手のひらを見つめた。
「私…小さなあの子のほっぺた、殴ったの。」
「亜弓さん…。」
「見る見るうちに腫れていくあの子の、ほっぺた見てたら私終わらせたくなったの。何もかも全て…。」
「亜弓さん、もういいです。もうわかったから。」
「椋くんは、優しい子なのね。」
そう言って泣き顔のまま優しく笑った亜弓の方が、優しい人だと椋は思った。