「あの後……」


 と言いながら、田中さんは体を前に乗り出し、咄嗟に俺は体を後ろに引いた。すると田中さんは、手で俺に“おいでおいで”をした。


「襲ったりしないから…… 人に聞かれたら困るでしょ?」


 確かに少し離れた席に他の人がいた。しかしやたらと大きい自分の声を、少し落とせば聞こえるとは思えないが、それを言うのも面倒なので、仕方なく俺は顔を前に出した。


「チューしちゃおうかなあ」

「ちょっ……」

「冗談よ」


 ったくもう、何なんだろう、この人。

 再び“おいでおいで”をされ、渋々顔を前に突き出すと……


「あの後、ホテルに行ったの?」

「……行くわけないでしょ!」

「ちょ、声大きい」


 俺が大声を出してしまった。


「すみません。でも、あなたが変な事を言うから……」

「変かな。じゃあ、真奈美のアパートに行ったんだ?」

「行きませんよ……」


 へえー。チーフもアパート暮らしなんだ。知らなかったなあ。今度は俺がチーフのアパートに行ったりして。“それでおあいこにしましょう?”とか言ったら、チーフは何て言うかなあ。


「じゃあ、佐伯君のアパートに行ったのね?」


 もし実現したら、今度こそはシラフで、彼女と……


「そうなのね?」

「はい」

「やっばりね!」

「えっ? いや、ちが……」

「“はい”って言ったんだから、もう手遅れ!」


 あちゃー。妄想に浸ってて、うっかり認めちゃったよ。何やってんだろ、俺。


「いいじゃない、別に。お互い大人なんだからさ」

「はあ……」


 責めるのではなく、そう言ってもらえると俺としては助かるのだが、では何のために田中さんは俺とこんな話をしてるんだろうか。単なる下ネタなら、直接チーフとすれば良いのでは?