あ、そうだ。大事な事を忘れてた。


「チーフ……」

「ん?」

「ひとつだけお聞きしたいんですけど……」

「昨夜の事ならやめて? あなたは憶えてない。私は忘れる。それでお終い。無かった事にしましょう?」

「そんな…… ひとつだけでいいんで、教えてくださいよ?」

「もう、しょうがないなあ。どんな事?」

「はい。チーフが僕に言った事って、何だったんですか?」


 そう。チーフはそれを忘れてほしいと言ったのだが、俺は気になってしょうがない。チーフは俺に、何て言ったのだろう……


「バカじゃないの?」

「え?」

「憶えてるなら忘れてほしかった事を、わざわざ言うわけないでしょ?」

「まあ、それはそうですけど、気になっちゃって……」


 そこへ店員さんが2人分の秋刀魚定食を持ってやって来た。


「もう話はお終い。食べましょう?」

「はあ……」


 チーフは、笑顔さえ浮かべながら秋刀魚を美味しそうに食べ始めた。実際、焼き立ての秋刀魚は旬という事もあり、脂が乗ってて美味しかったけども……

 俺、昨夜の事は無かった事になんて出来ませんよ、チーフみたいには。

 そう心の中で呟いた。自分で言うのもなんだけど、俺はさほど恋愛経験がなく、もちろん遊び慣れてもいない。たぶんこれからはチーフをそういう目で見てしまうと思う。つまり、関係を持った一人の女性として。


「美味しいね?」

「はあ、そうですね」

「私ね、お魚が大好きなの。特に秋刀魚とか鯵とか……」


 いつになく上機嫌で饒舌なチーフはかなりレアだが、それほどに昨夜の事が無かった事になって嬉しいのだろうか。俺との過ちが、そんなに嫌だったのだろうか……


 不意にチーフは鼻を啜り、可愛らしいハンカチをバッグから出し、鼻や目をそれで押さえた。


「風邪ですか?」

「え? そ、そうみたい」

「気を付けてくださいね。今、流行ってるみたいですから」

「そうね。ありがとう」