肩を上下させて色華廓から出ると、翡翠様が立っていた。

着物が邪魔だ。

「翡翠様…」

出会って少ししか経っていないのに懐かしく感じる笑顔。

「気づいてくれたんだね」

君の名前は何?

翡翠様が私を胸に引き寄せて囁く。

忘れていた私の名前。

「萌木、でございます」

口にした途端、涙が溢れた。
昨日の私のように、翡翠様が何度も名前を呼ぶ。

噛み締めるようにゆっくりと。

もう二度と呼ばれることはないと思っていた。

「同じ緑に関する名だね」

「はい」

翡翠様がどこかへ私を誘う。
もう私は躑躅姫ではない。

ずいぶん歩いたところで、私は息を飲んだ。

「ここは…」

藤咲と肩を並べる貴族家、藍原の総本家だった。
昔に一度だけ来たことがある。

「貴方は藍原家のご子息だったのですか…」

翡翠様が私の肩を強く抱く。

「恐れることはない、貴女は今でも藤咲の娘だ」

「もう違います。私は売られた身、ただの萌木でございます」

そうだ。位も何も持たない、ただの女。

翡翠様が私に笑いかける。
それはそれは嬉しそうに。
しかし目の奥に冷たい光を宿して。

「血や身に付いた教養は嘘をつかない。それに忘れたの?」

何のことかと見つめ返す。

「藍原が君の身売りをずっと反対していたことを」

確かにそうだった。藍原の現当主、柳様は何度も両親に会談を持ちかけてくれていた。

それを聞かずに私は売り飛ばされた訳だが。

「この数年、僕は君をずっと探していた。あの日の事が頭に焼きついて離れなかったから」

「あの日?」

「君が売られて行った日。涙を静かに溢しながら引きずられて行った君の姿が、今でも離れない」 

「もしかして、貴方は…」

思い当たる節があった。

私から藍原家に出向いたことは一度きりしか無かったが、藍原はよく藤咲家に出入りしていたのだ。

そこで出会った男の子が一人いた。

いつだったか。寂しくて泣いていた時だろうか。

『僕が守ってあげる』

そう言ってくれた人がいた。

今から四年前、そう、売られる半年前だ。

その人は売られるその日も来ていた。そして。

「ひい様…」

「思い出した?萌ちゃん」

翡翠様は目を細めた。
あの子がこんなに立派になって、私を助けに来てくれたと言うのか。

俄には信じ難いことだった。

「守れなかったから、今度こそ助けに来たよ」

「だから、諦めてしまうのかと仰ったのですね」

売られた日、私は抵抗さえしなかった。
彼は見ていたのだろう。


「さあ、行こう」


一歩、踏み出す。