・・・

「躑躅。お客だよ」

することもなくぼうっとしていると、不意に名前が呼ばれた。

「お帰りなさい、旦那様」

廓言葉を使わず、正しい言葉遣いをするのが躑躅姫の売りだ。
女将いわく、妻に迎えられているような気分になるのが至福らしい。

それにしても、私を指名できるほどとはどんな方なのだろう。

興味が湧いた。
そして、

「こんにちは“躑躅姫”」

絶句した。

わざとらしく強調された色華の名前。
でもそれよりも。

「翡翠、様…!」

戸を開けたのは翡翠様その人だった。

「やっぱり、君が躑躅姫なのか」

翡翠様は相も変わらず穏やかな表情で、昨日とただ一つ違う所といえば浴衣でなく普通の着物だということ。

これまた上質なものだ。

「なぜ、ここに…」

「僕は君に会いに来ちゃいけない?」

「いえ、そういうわけでは」

そんなわけない。そんなわけないけど。

翡翠様には、躑躅じゃない私で会いたかった。

「ごめんね」

唐突な言葉に首を傾げる。
そんな私に悲しげに笑いかける翡翠様。

「躑躅姫。僕は、君を買う」

「え、あ…」

言葉にならない声。

ここでは、この色華の世界では。
買われるとは、主の玩具になることを言う。

つまり─何の情もない、ただ囲われているだけの女。

そう、貴族の社会ではそんなもの当たり前なのだ。
現に次女の私だって売られたじゃないか。

何を驚いてるの。

「…光栄ですわ。旦那様」

笑え。いつものように。
感情を削ぎ落とした躑躅姫の顔で。

「お、女将、手続きを──」

そう言って立ち上がる。

しかし、パシッと音を立てて腕を掴まれた。

「…貴女は、また諦めてしまうのか」

「え?」

翡翠様は目を伏せて微動だにしない。
もしかしたらと腕を外してみると、いとも簡単に脱け出せた。

翡翠様はもう一度私と目を合わせ、出て行った。

状況が上手く飲み込めないまま戸を開ける。

「女将?」

「あんた…馬鹿だねえ」

「逃げな。早く行きなよ」

意味が、分からない。だって私は。

「どうして」

「あんたの名前は何だい!」

そう問われて、ハッとした。

私の名前。私自身が忘れてた。

「裏口から出な」

女将がすれ違い様に呟く。
それに頷いて、私は広い廓をひた走った。



「酷いことしたね。でもあんたを一級でいさせるには、これしかなかったんだ。幸せに、なるんだよ」



女将がそう呟いていたことを、私は知らない。