そんなわけ、ないのに。


「はは、そうだと良いけどね」

「すみません、私なんかが…」

彼は不思議そうな顔をした。

「今のは本心だよ。べっぴんさんだしね、なんて」

頬に熱が集まるのが分かった。

「僕は翡翠っていうんだ」

「翡翠様、と仰るのですか。素敵な名前…」

私が翡翠様、翡翠様と小さく繰り返すのを翡翠様は嬉しそうに笑って見ている。

「そんな風に言われると照れるな。あ、君は?」

「私は…」

名前を言おうとしたときだった。

「見つけた!躑躅姫!」

聞き慣れた、聞きたくもない声が辺りに響いた。

「つつじ、というのか…?」

翡翠様が目を見開く。

嫌、違う。こんな名前、私じゃない──。

「嫌…翡翠様、ごめんなさい私っ…」

走り出そうとしたが、既に手遅れだった。

腕を掴まれる。図太い監視係の男だ。
逃げようと身を捩った瞬間。

グシャ、と耳元で音がした。息ができない。

しばらくして、顔を地面に押し付けられたのが分かった。
水溜まりの泥水が浴衣や顔に飛び散る。

翡翠様に見られたくない。
しかし、手も後ろで一つにされているために拭うことができない。

「躑躅、あんたに逃げられちゃ困るんだよ。大切な商売道具なんだからねぇ」

「お、かみ…っ!」

最悪だ。女将直々の迎えだなんて。

かはっと泥を吐きながら、女将を睨みつける。

「貴様っ、この子に何をしているんだ!」

翡翠様が怒鳴って男に掴みかかろうとした。

「お止めください旦那!」

それだけは。きっと、痛い目に会うから。
私なんかのために傷つけたくない。

翡翠様がぴくりと肩を揺らす。

その驚きに満ちた顔に、妖艶に微笑んでみせる。

「旦那。私はお高いですわよ」

ああ、私は。何て卑怯なの。

助けなんて求めちゃいけないのに。

わざと旦那なんて不自然な呼び方をして。
彼が気がつくと分かっていて。

「躑躅姫、それでこそ色華廓の一級色華だ」

女将が嘲笑う。

頬を伝う水は、涙なんかじゃないの。
涙なんて枯れてしまったから──。


引きずられていく私を見つめたまま、翡翠様は立ち尽くしたまま動けずにいた。