俺は、あの時から結婚というものが恐ろしくて仕方なくなった。
あんな下衆な親父の血が流れている俺は、果たして幸せな家庭を築けるのだろうか。
父とろくに会話をしたことの無い俺が、〝ふつうの家庭〟を知らない俺が、果たして誰かを幸せにすることができるのだろうか。
たとえ心から愛した人でも、結婚という鎖でその人を縛り付ける勇気が、俺にあるだろうか。

年を重ねて、誰かと付き合っても、頭の片隅にはいつも泣いている母親の姿が浮かんだ。
俺は、愛している人を、あんな風にしたくない。絶対に。


だから、俺は、本気で誰かを好きになることが、とても怖いのだ。


「……なに、どうしたの突然」
「心美に話があってきた」

実家に帰ってきた俺を見て、心美は瞳を丸くさせた。
心美はかなり動揺しながらドアを開け、スリッパを俺の足元に持ってきた。

「なあに、誰かお客様?」
奥から現れた母は、心美とそっくりな大きな瞳を見開き、それからぎこちなく笑った。
「珍しいじゃない、あなたの方からくるなんて」
仕事終わりだった俺は、スーツの上着を脱ぎながら、母を一度も見ずに横切った。
俺が帰ってきただけで、まるで氷水を床にまいたように家の空気が張り詰めたのを感じる。心美は俺と母親の空気を感じ取って完全に委縮している。
上着をハンガーにかけ、俺は心美と一緒に心美の部屋へ向かった。最中に、母親の顔を見ることは一度も無かった。