海に近いこの町は、真夏でも明け方はひどく冷え込む。
夜明け前に目が覚めて、薄目を開けたり閉じたりしながら、タオルケットに包まれ身震いをしたときだった。
「海琴!」
廊下から足音が聞こえたかと思うと、すごい勢いでふすまが開いて、血相を変えたお母さんが部屋に駆け込んでくる。
夢か現実かわからずに、寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こす。
「お母さん?」
どうして、ここにお母さんがいるのだろう。
まだ迎えに来る日ではないのに。
お母さんは荒げた息を整える間も持たず、部屋の隅に置いていた荷物を抱えると、まだぼんやりとするわたしの前に座る。
「帰ろう、海琴」
「なんで……? まだ、夏休みは終わらないよ」
「お願い、海琴。帰ろう?」
諭すような物言いだけれど、お母さんの顔は真っ青だった。
寝巻きのまま、手を引かれて部屋を出ようとしたとき、誰かが目の前に立ち塞がる。
「満、突然来て何をしているの」
おばあちゃんの声はわたしにかけるような優しいものではなくて、冷たく冴えているように聞こえる。
お母さんの背中に重なって顔は見えないけれど、ぴりっと空気が張り詰める。
「これからのことを話したいと伝えたけど、今日迎えに来るとは聞いてないよ」
「連れて帰ります、すぐに」
「満、話をしましょう。突然こんな……海琴も混乱するでしょう」
「海琴には家に帰って、私が話します」
2人とも、声がすごく冷たくて、こわい。
握った手にぎゅっと力を込めると、静かな言い合いが途切れた隙に、お母さんはおばあちゃんの横をすり抜ける。
玄関に向かう途中に振り向くと、おばあちゃんは何か言いたげな顔をしていたけれど、お母さんやわたしを引き止めには来なかった。
玄関ドアに遮られておばあちゃんの姿が見えなくなって、お母さんに家の前に止まった車の助手席に促される。
片足を乗せたあと、もう片方の足が地面に縫い付けられたように動かせない。
碧汰の家の方向を見た瞬間に、全身にぶわりと鳥肌が立つ。
あの予感が、不安が、当たってしまう。
座席に乗りかけていた体を引きそうになったとき、運転席に座ったお母さんがわたしの手をつかんだ。
「海琴、乗って」
「っ、はなして、碧汰っ!」
いやだ。
碧汰、碧汰。
『また明日』
碧汰は昨夜、そう言ったのに。
昨夜のことは何だったのか、碧汰にあんな顔をさせた理由は何なのか、聞かなきゃいけないのに。
「お願い、海琴」
朝鳥の鳴き声すら聞こえない、明けきらない夜の終わりに、お母さんの悲痛げな声が耳に痛いくらいに響く。
「そう、た」
掠れた声は朝霧に紛れて、溶けていく。
碧汰に届くことなく。
お母さんは力の抜けたわたしを抱えて座席に乗せる。
抵抗することはできた。
お母さんを振り切って車を降りることもできたのに、わたしはそうしなかった。
ごめんなさい、碧汰。
わたしは、碧汰を選べない。
ここに残ることも、お母さんと家に帰ることも、どちらもは選べないからどちらかを選ばないといけない。
ここにいたいと、お母さんの前で口にすることができなかった。
それが、わたしの答えだった。
昨夜、意地でも流れ星を見つけられるまで起きていたら。
雲が晴れるまで、夜空を見上げていたら。
こんなことにはならなかったんじゃないかって、後悔が駆け巡る。
『また、碧汰に会えますように』
本当はもっと、欲張りな願いごとがあった。
『碧汰とずっと一緒にいられますように』
声が枯れるまで、叫べばよかった。
届くまで、何度だって呼べばよかった。
この日途切れたわたしの夏は、涙の向こうに薄れて消えていった。



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