「別れましょう」
三年付き合った彼女に、何の前触れもなく別れを切り出された。
「………え」
しばらく何を言われたのか理解できなかった。
力の入らない頬を無理やり動かし、笑みをつくる。
「……何言ってんだよ」
相手がバーカ、本気にしたでしょ?と笑い出すのを待った。
しかし彼女の瞳はこれまで見たことがないくらいに真剣で情け容赦なくまっすぐだった。
へらりと浮かべていた微笑みがあっさりと吹き飛ぶ。
「……なんで」
「本気で好きな人が出来たの」
息が詰まった。
胸の奥で嫌な音がする。
彼女は綺麗な顔を芸術的に歪め、心底辛そうな声で言った。
「ごめんなさい、別れて下さい」
ここはどこだろうか。
彼女と別れて、あてもなく彷徨っていたら、いつの間にか来たことのない場所に来ていた。
ふいにおかしくなって、雑踏の中、立ち止まりクスクス笑う。
通行人が迷惑そうに優のそばを通り過ぎてゆく。
『本気で好きな人ができたの』
つまり、自分との付き合いは本気じゃなかったわけだ。
『ごめんなさい、別れてください』
悲劇のヒロインごっこかよ。
ふざけるな。
別れ際の悲愴な顔を思い出し、ますます笑いが止まらなくなる。
ああ、おかしい。
捨てておきながら、哀れむのか。
可哀想な優、って?
ふいに何かがこみ上げてきて、優は静かに感情を押し殺した。
一瞬ぼやけた視界はすぐに元に戻った。
大丈夫、僕は、泣いたり、しない。
泣くのは弱い証拠だ。
泣くなんて、人の同情引きたいやつがすることだ。
幼い日々、泣けば頬をぶたれた。
弱い、情けない、お父さんがなんて言うか、同情を引きたいなら他所の家に行けばいい、お前なんかうちの子じゃない
ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん、もう泣かない、泣かないから家に入れて、よそのうちにやらないで
今でも耳にこびりついて離れない、母の声。
泣いてはいけない。
泣いてはいけない。
そう、優は泣いてはいけないのだ。
・
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しく、しく、と悲しげな声がした。
見れば小さな男の子が泣いている。
どうしたの
尋ねても男の子は泣くばっかりで、答えようとはしない。
おうちはどこかな。
悲しげな泣き声は止まらない。
それでもやっと、男の子はしゃくりあげながら答えた。
お、お父さんがいなくなったのっもう、ずっと、あ、会えないの
……そっか
優はふいに、父が亡くなった時のことを思い出した。
母の涙にいろどられた、悲しい記憶。
「……俺も、大切な人がいなくなっちゃうんだ。」
男の子が顔を上げた。
「大切な人、みんないなくなるんだ。父さんも、母さんも、あいつも…っ…」
頬を熱いものが伝っても、とめる方法がわからなかった。
泣いてはいけない。
泣いてはいけないのに。
心の中に溜めていた悲しみが溢れて止まらなかった。
小さな手が、そっと頭を撫でてくれる。
赤くなった男の子の瞳は、不思議と母の瞳に似かよっていた。
それは優の瞳でもあった。
泣きつかれて気がつけば、優はアパートのベッドの上で横になっていた。
夢を見ていたらしかった。
ひとしずく、ひとしずく
流れた涙と共に、気持ちも少し軽くなっていた。
「ゆうっ、はやく来いよ、遅れるぞ」
自分を呼ぶ声に、優はふわりと微笑んだ。
「今、いく」