「え? じゃない。しっかり歩かないと、このまま抱いていくぞ?」
――抱いてって。
「ええっ!?」
満更冗談でもないような低い声音で耳元にささやかれ、慌てて、後ろに飛び退くように全身を包んでいた温もりから身体を引きはがす。
――なーぜ、耳元に囁く、この変態!?
くすぐったいから、やめてよねっ!
そう、言い放ってやりたい衝動を、ぐっとこらえて、
「あ、いや、大丈夫です、自分で歩けます、すみません、ありがとうございます」
反撃をする暇を与えず早口でまくし立て、コメツキバッタの化身のようにペコペコと頭を下げる。
「なら、ちゃんと歩け」
「は、はいっ」
チラリと、見るからに高価そうなシルバーの腕時計に視線を走らせ、社長はくるりと背を向け、すたすたと歩いて行ってしまう。
私はがっくりと肩を落としながら、その後を小走りで追う。
この絵面の、わびしさよ。
なんだか正社員第一日目にして、サラリーマンの哀愁を垣間見てしまった気がする。



