「わぁ!!! 高いわ!!!」

 馬上のエルティーナは思わず叫ぶ。馬に乗るのは初めてではないが、軍馬にそれもサラブレッドに乗るのは生まれて初めての体験だった。

 エルティーナを馬に乗せた直後、アレンが騎乗してきた。

 馬の背の筋肉が動いたのが分かる。そして背後にぴったりと人の気配がする。
 いつもはパニエの上にドレスを着ている為、人との距離が遠く、直接人と密着する事がない。
 しかしエルティーナは今、町娘の格好になっている。
 くるぶしの丈のストライプ柄ワンピースに、編み上げのジョッキブーツという出で立ちだ。

 アレンも普段と違う姿で、真っ黒なトラウザーズに白いシャツに黒いベスト、茶色のジョッキブーツという、驚くほど簡素な姿だった。レオンやレオンの護衛達もほぼ同じ姿だ。
 どんな姿でもアレンの神がかった美貌は衰えることはない。

 洋服が違う…それはいいのだ。それは…。ただ、その格好がいけなかった…。

 エルティーナは今の状況に息ができなくなってきており、酸欠状態。

 騎士の軍服は厚手であり、金モールや腕章が付いた重量感たっぷりの仕様となっているので、身体が密着しても、とくに体温なんてものは感じない。
 エルティーナはいつもレオンに抱きついている為 知っている。

 しかし今の洋服は、アレンの体温が鼓動が直に身体に響くのだ!!

 背中にあたる逞しい胸板が…。
 エルティーナの肩を挟む力強い両腕が…。
 風のイタズラで舞い上がるアレンの柔らかい髪が頬をなで…。
 エルティーナの身体を挟んでいる、筋肉の筋が分かる両太腿が…。
 そして、身体から匂うアレン独特の甘い香りが…。

(「無理…恥ずかしい…息が出来ない…」)



「っ!? エルティーナ様! エルティーナ様!!」

 パシンッ!! 頬が叩かれる。

「はっ!!…お兄…様……」

エルティーナは、少しぼぅ〜とした状態で兄のレオンを呼んだ…。

 レオンはエルティーナのすぐ横まで馬を並行につけ、意識が朦朧としているエルティーナを馬上から、思い切り引っ叩いたのだ。

「お兄様…痛いです…。そんっな思い切り叩かなくてもいいのではないですか!? まだ、頬っぺた痛いです!!」

「気絶しそうだった奴が、よく言う」

「…うっ…」

「…エルティーナ様…本当に大丈夫ですか…? ………レオン…加減がなさすぎる。思い切り叩きすぎだ。……赤くなっている」


 心配そうにエルティーナの顔を覗き込むアレン…。
 兄に叩かれた自分が間抜け過ぎて、大きなブラウンの瞳からは涙が溢れてきた。
 その涙がまた情けなくて、恥ずかしくて、エルティーナは乱暴にワンピースの袖で涙を拭った。

「…はぁ〜………アレンを見て気絶する奴はよく見てきたが…エルまで……とは…。
 …仕方ないな、エルは俺と一緒に乗れ。一度馬から降りろ」

「……いや」

「エル!!」

「もう大丈夫です!! もう大丈夫!!!びっくりしただけ」

 例え大好きな兄の言葉でも嫌だった。これほど珍しい機会は、今回で最初で最後だと分かっている。
 兄がエルティーナを遊びに誘ってくれた本当の意味を理解している。
 エルティーナがフリゲルン伯爵に嫁ぐから。もう今みたいに気軽に兄に会えなくなる。そしてアレンとの関係も終わる…。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 最後の思い出だから、もう我が儘は言わないから、だから絶対に譲れない。

 きっ!!!っと睨んでくる妹を見て、レオンは呆れていた。
 そんな硬直状態をやぶったのは、アレンだった…。


「エルティーナ様。今は大丈夫ですか? 頭が痛いとか、吐き気がするとかはございませんか?」

「…え、ええ」

「でしたら、このままで…。どんな状況になっても、私が貴女を離す事はありませんので。落馬の恐れは無しです。…例え命にかえても御守り致します」

 エルティーナは視界の端で、周りの人が息を呑み硬まるのが分かる。

 アレンは、まるで壊れ物を扱うように…レオンに叩かれて赤くなった頬に、厚くて大きな手を触れるか触れないかくらいで添えてくる。

 そして…柔らかく…優しく…包み込むように腕の中へ…エルティーナを囲う……。

 恥ずかしいとか、怒られて哀しいとか、もう今はどうでもよかった。

 大切にされているのが分かる。
 護られているのが分かる。
 この世でアレンの腕の中ほど安全な場所はない。


 エルティーナの身体は自然に…動いた…。

 馬上で上半身を捻り…そして…思い切り両手をひらき…安心しかない胸元に飛び込み、アレンの大きな背中に手を回す。
 最後に…アレンの甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


「ええ。絶対に離さないでね」

 エルティーナの天使のように清麗で甘い声があたりに響く。

 パトリックとフローレンスは、この王都散策の意味を…レオンの意図を…知っていた。

 エルティーナがフリゲルン伯爵への降嫁決定に基づくものだと。
 だからこそ、疑問に思わずにはいられなかった。
 エルティーナ様とアレン様が何故…これほど愛し合っていて男女の関係にならないのか?
 …何故…夫婦にならないのか? …自分達が知っている全ての人の中で、二人ほど魂で結びあっている人を知らない。


 バシッ!!!

 レオンは、二人の空気をあえて壊すべくアレンの後頭部を叩いた。

「ぬぁ!? お兄様!! なんてことするの!! 頭を叩くだなんて!!!」

「なんてことだと。エル、それはこちらのセリフだ。
 爽やかに王都散策に向かおうとしているのに。今から夜の営みに突入しようかという甘ったるい雰囲気が出ていたから、その空気を壊しただけだ。褒められて然るべきだ」

「お、お兄様!! アレンに失礼な事を言わないで下さい!!!
 騎士として、在るべき姿を見せてくれたの!! 今は…今はまだ、アレンは私の護衛騎士だから!!!」

 出したこともない大きな声で、涙をこらえながらエルティーナは叫んだ。


「…うっ…わ、悪かった…大人気なかったな……機嫌直せ」

 レオンは、赤くなったエルティーナの頬を軽くつねった。いつものように親しみをこめて。

 ぎーゅーーぃーーー。
「痛いぃぃぃ!! 痛ぃぃぃぃ!!!」

 しかし涙目になるのは、今度はレオンの番だった。
 アレンは、エルティーナの頬をつねったレオンの腕を力加減することなく捻り上げた。


「レオン。エルティーナ様に触れるな」

 絶対零度のアレンに、流石のレオンも硬まる。

「本当よ、本当」とエルティーナは、頬をガードしながら、プリプリっと可愛らしく怒っているが背後のアレンは恐怖そのものだ…。

 柔らかさの欠片もない硬質な美貌のアレンが本気で怒ると、視界に入るだけでも身体が凍りつくのだと、パトリックとフローレンスは改めて理解した…。
 そして、今の状況に泣きたくなった……。

((「「もう嫌だ…」」))

 二人は心の中で、今から始まる長い一日、アレンによって精神が破壊されないか不安で仕方がなかった。

(「お願いです。レオン殿下……。これ以上…アレン様を怒らせないで下さい……。我々が…これ以上もちません……」)

 二人の懇願に憮然とした態度で、一応了承したレオン。
 前にいるアレンとエルティーナを見て、不安がよぎるのだった。


 王都メルカの中心部に行く為に、エルティーナ、アレン、レオン、パトリック、フローレンスはやっと城の門を出た。