「まさか、あなたが来るとは思わなかった」

 朝芳の動揺に気付かぬ風に、綾は喋り続ける。
 だが朝芳が口を開かないので、会話も成り立たない。
 しん、と静まり返った空間に、しとしとと雨の音だけが響いた。

 そろ、と朝芳は目だけを動かして、周りを窺った。
 どうやらお付きの者はいないようだ。

 ずっと庭を散歩するだけで、ここに近付くこともなかったので、皆安心したのだろう。
 殿様の寵姫とはいえ、正室ではない。
 身分も低いため、そう大袈裟な警備もないのかもしれない。

 しばらく時が流れ、つ、と綾が身を乗り出した。

「……会いたかった」

 静まり返った部屋に、綾の声がやけに鮮明に聞こえた。
 反射的に、朝芳が顔を上げる。
 真っ直ぐに、綾の瞳が見つめていた。

「姫様。お戯れはよしなせぇ」

 思ったより冷静な声が出たことに安心し、朝芳は息をつくと、渇いてしまった筆を絵皿に沈めた。

「どうしてそんなこと言うの? あのときは、逃げてでも一緒になろうって言ってくれたのに」

 綾の顔が曇り、悲しそうな声で訴える。
 五年前のことが、さぁっと朝芳の脳裏に蘇った。