伊織さんは私の言葉を聞いた途端、胸ポケットにしまっていたスマホを取り出して操作する。
たぶんずっと電源を切っていたであろうそれは、すぐに繋がったようだった。
「葛西(かさい)か? ああ、そう喚くな。とりあえず生きてる。問題ない。それより、すぐに調べて欲しいことがある」
伊織さんは葛西という相手に必要最低限の内容を告げた後、すぐに通話を切ってスマホをポケットにしまう。
一連の手慣れた様子は、伊織さんが人への指示に慣れた人間だと知るには十分で。(バイトちゃんの話から知っただけだけど)ブランドもののオーダーメイドスーツを着こなしていることからも、自分とは違う世界に住む人なんだと痛感した。
そりゃそうだ。
離婚の慰謝料で何の躊躇いもなく1000万なんて金額と、マンションの権利書なんてあっさり言える人だ。きっと彼にとって、そんな金額なんて痛くも痒くもないに違いない。
1000万なんて……私の深夜のバイトの時給がほぼ同じだから、同じ金額を稼ごうとしたら1万時間働かなきゃいけない計算になる。
……一体何年バイトで働けばそんな金額が手に出来るやら、とぼんやり考えて、ハッと我に返る。
バイト……あと30分で始まっちゃう!
腕時計で時間を確認した私は、とにかく断ろうと伊織さんに声をかけた。
「あの、私はもうバイトに行かなくちゃいけません。せっかくですが、このお話はお断りさせていただきます」



