契約結婚の終わらせかた




あまりにも過酷な伊織さんの過去に、私は何も言えなかった。いいえ。言えるはずもない……本当の悲しみや不幸を前にすれば、下手な慰めなど上滑りするだけだ。


「わたくしが……もっと気をつけていたら。十の時の伊織は……わずか八歳の体重と身長しかなかったのです」


目を真っ赤に腫らした葵和子さんは、ハンカチで目尻を押さえた。


「あの子が一切固形物を受け付けなかったのも……プリンしか食べなかったのも。すべてが子ども時代のトラウマ。3つから10歳までの7年間の根深い傷なのです。それだけ難しかったのに……碧さん、あなたが伊織をきちんとした人間に戻してくれたのですよ」


葵和子さんはテーブルにつきそうなほど、深々と頭を下げてきた。


「本当に、ありがとうございます……何もかもあなたのお陰です。これからも息子をよろしくお願いします」

「き、葵和子さん……顔をあげてください」

「いいえ、碧さんが頷いて下さるまで上げません。伊織が幸せになるには、あなたが必要不可欠なのですもの。伊織があなたと幸せになるためでしたらこれくらい……」

「それは困りますね」


突然、壮年男性の声が割り込んできて、驚いて葵和子さんの後ろを見れば。一人のスーツ姿の男性がこちらを向いていた。


黒地にストライプ柄のダブルボタンスーツを着た、黒髪をリーゼントでまとめあげたメガネの男性。線が細く40過ぎだろうか。神経質そうな細い眉が八の字を描く。


「伊織さんにはこちらの定めた婚約者とご結婚していただき、桂グループの跡取りとなっていただく必要がございますからね」


葵和子さんの夫である正蔵さんの秘書である佐倉という男性は、メガネを煌めかせこちらを見下す視線を向けた。


「でなければ……あなた方すべてが不幸になる未来しか待ち受けておりませんので、あしからず」