男は悲観していた。
 大手の取引先とは商談がうまくいかず、営業成績に熱心な上司に怒鳴り続けられる毎日に。
 更に長年真剣に付き合い、結婚も決めていた女性との破局。
 女手ひとつで育ててきてくれた、母の突然の他界。
 思い通りにいかない人生は誰にでもあることだし、自分は大人だからと男は現実を受け入れしようとした。
 だが、これだけの不幸が一度に襲いかかってくるなど、受けとめるには厳しい状況だった。
 厄年はこれからなのに、今年がこれでは先が思いやられる。
 男は運転中に自分の未来を脳内で構築しながら、母とともに暮らしてきた自宅に向かう。
 健康だし、屋根がある場所で安心して熟睡できるだけ、まだましな人生だろう。他の人と比べれば幸せなほうだと、思うのが無難だ。
 そう無理に考えて、男は自分を慰めていた。
 と、家に到着した時、車が自宅前に駐車しているのに気づいた。
 小型のトラックは配達車に見える。
 しかし、おかしい。男は首を傾げた。
 荷物が届くなど独り者の自分には考えられないし、宅配を頼んだ覚えもないのだ。
 プレゼントした品物を、別れた彼女が送り返してきたのだろうか?
 いや、あの強欲女がそんなことをする訳がない。質屋に全て売りつけているのが目に見えている。
 では、誰かが母の他界を悲しみ、供え物をと贈ってきたのだろうか? それもないだろう。そう結論づけた理由は、母親の葬儀を身内だけですませていたからだった。
 母が急死したのを悟られないよう、休日に葬儀をすませて隠し通した。同情されるのが嫌だったのと業務が切迫していたことから、母が他界したので休みたいなどとは言いにくかったのだ。
 身内にもお返しが面倒だから、荷物は出さないでくれと頼んであった。
 そう、宅配物など届くはずがないのだ。では、一体誰が?
 男は運転しつつも疑問にかられながらも、配送車の横を通り過ぎた。
 謎を解明できないまま駐車場に車を停めて、自宅の玄関に足を向ける。
 すると、配達人が安心した表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「ああ、良かった。帰宅されたのですね。本日中に渡さなくてはならない品物だったので、途方に暮れていたのですよ。こちらにサインでもいいので、お願いできますか?」
 言われた通り男はサインしようとしたが、どうにも差出人が気になった。
 届け先には、確かに男の自宅の住所と名前が記されている。
 しかし、その下の送り主の欄には住所も名前も記されてはいない。
 危険な品物ではないかと疑った男は、サインする手をとめた。
「どうしたのです? サインをお願いします」
 配達人が執拗にサインを迫るが、男は手をとめたまま訊いた。
「差出人が書かれていないですが、現金引き換えなんてないでしょうね?」
 見覚えのない小包と引き換えに代金を騙し取るという、最近噂になっている詐欺行為だ。不幸な人生を送っている上に、詐欺まがいの行為で金を騙し取られるなど冗談ではない。
 男はそんな不幸な目には、もう絶対に遭いたくなかった。
「何も聞いておりませんが。ただ私は今日必ず届けてくださいと、頼まれただけなので……」
 言葉とともに配達人が小包を差し出してくる。
 手に取ったものの、今度は箱の大きさと対照的に驚くほど荷物が軽い。最悪の事態を想定して、慎重に事を進めようと男は考えた。
「まだ待ってもらえますか? どうにも差出人が書かれてないのが、気にいらない。僕は恨まれる覚えはないが、爆発物だという可能性もある」
「では中身を確かめてみますか?」
 すると男の言葉に、配達人は迷うことなく意外な言葉を発していた。
「はあ……」
 男は肯定とも否定とも取れない声で濁して迷った。
 しかし、配達人はそれにも構うことなく笑顔を浮かべ、更に続ける。
「こういうことはよくあるのです。それにお品物の中身については、万全の対策を取らせていただいております」
 配達人の言葉に男は、ただ黙って聞いて考えこんだ。
 本当にそんなことがあるのだろうか?
 聞いた試しはなかったが、男は黙って配達人が品物を取り出すのを待つ。
 取り出されたのは真新しい一冊の日記帳だけだった。
 どうりで軽かったわけだ。けれど、誰が何故こんな物を?
 疑問は残ったままだったが、取り敢えず危険物でなかったことに男は安堵し、胸を撫で下ろした。
「受け取ってもらえますね?」
 目の前で開けられ、危険物でないと証明された末、代金の引き換えもないと言われれば黙って受け取るしかない。
 男は印鑑の欄にサインを書き、日記帳を受け取った。
「良かった。これで私も安心して仕事に戻れます」
 ほっとしたような顔をした配達人は、足早に車に乗りこんだ。
 配達人が車を出して、その姿が見えなくなるまで男は見届けると、渡された日記帳を開いた。
 そこで信じ難い文章を見つけ、男は真剣に見入った。
「何だ。これは?」
 開いた一ページ目に、二週間前の日付が記されていた。
 男が婚約していた女性と別れた日である。
『あなたの性格の良さが逆に重みなの。
 これ以上、気を遣って付き合うようなら長く続かない!
 そんな理由を突きつけられて、僕は何も反論することができなかった。
 よくいう女だ。自分がいい子でいたいのだろう!
 正直に新しい男ができたと言え』
 そう書かれていて、思わず男は息をとめた。
 自分しか知らない事実と、その時の心境が鮮明に記録されている。
 だとしたら、他のページはどうなのだろうか?
 慌てて男は、一週間前の日付の場所を開いた。
『最愛の母が、突然自宅で倒れて息を引き取った。
 僕が帰宅した時には既に手遅れで解剖の結果、心筋梗塞と判明した。
 結婚式の出席を楽しみにし、孫を見る日を心待ちにしてくれていただけに本当に申し訳ない。
 彼女と別れたことを、母に伝えていなかったのは幸いか間違いなのか、今の僕にはわからない』
 これも間違いなく、自分しか知らないことであった。
 続けて男は昨日の日付のページを開く。
 すると今度は、社内での出来事が目に留まり、読むのに夢中になった。
『契約重点先に謝りに向かう。
 どうやら僕の意見を採用したせいで、事態が暗転したらしい。
 損害は計り知れないと言われ、相手に契約を打ち切られてしまった。
 我が社にも大きな損害となる。減給、降格は避けられないだろう』
 男は昨日の出来事を鮮明に思い出し、息をつくと一枚ページを捲った。
 そして今日の日付にはこう記されていた。
『いつものように仕事に向かい、いつものように帰宅すると、配送車が自宅前に停車していた。
 荷物を届けにきたと言うが、僕には見覚えのない物だ。
 疑って調べたが、危険な物でもないようなので仕方なしに受け取る。
 しかし、不思議な日記帳だ。
 何故、僕しか知らない事実、心境が細かく記されているのだろう』
 目を疑い、次のページを捲ると、そこはまだ白紙で上部に遠慮がちな文字でこう書かれていた。
『これからの人生は、あなたの好きなように書いてください』
 まさか、こんな夢のような現実があるはずがない! 誰かの悪戯か?
 男はそう疑ったが、書くだけなら害はないだろうと万年筆を取り出し、明日の欄に思いついたことを書き綴った。
『重点先から連絡があった。
 採用した案の経過が好転したらしく、詫びを入れたいとのことだ。
 その成果で上司から昇格の通達を受け、僕は晴れて課長になる。
 社内のマドンナ的存在である女性に告白された。
 結婚を前提に本気で付き合いたいと言われる。
 そして、買っていた宝クジが当選したことがわかる。
 配当金は――』
 そこで男は手をとめた。
 何を子供のように本気になって書いているんだ? 幼稚なこと、この上ない。
 だが、日記帳を捨てるわけにもいかず、家に入ると買ってきた弁当で食事をすませ、一息吐くと風呂に入った。
 憂鬱な一日は過ぎ、明日も息の詰まる仕事場に向かわなければならない。
 布団に寝転んだ時が一番幸せだ。
 そう感じて溜め息を吐き、男は目を閉じる。
 次に目を開ければ、朝がきている。
 そんな日々が嫌で、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのだ。

 翌朝、男は目覚まし時計に叩き起こされた。
 興奮からか、睡眠もろくに取れなかった。起きあがる力もなく、気分が悪い。かといって仕事を休むわけにもいかない。
 それだけ男の置かれた立場は深刻であり、現実に追い詰められていた。
 最悪の心身状態で家を出て、車を出して社に走らせる。
 到着すると出勤記録をつけて、いつも通りにデスクに向かう。
 すると男の目の前――社の一角に人だかりができていた。普段、現場に姿を見せない社長の姿が確認できる。
 何事が起きたのかと近づくと、社長が慌てて駆け寄ってきて肩を叩いた。
 わかっている。重点先での失敗で降格、左遷の報告にでもきたのだろう。
 息を吐いてから通告を男は待ったが、社長の顔には笑みが浮かんでいた。
「契約先から、君の意見が大利益に繋がったと連絡があったぞ。損害は一時的なもので、一気に急上昇したらしい。更に多額の契約を結びたいとも言ってきている。君、社のために更なる努力を惜しまないか?」
「それは一体、どういう意味でしょうか?」
「課長の席には君が適任だと言っているんだ。返事は急がなくてもいい。じっくり考えた上で明日にでも答えてくれ」
 社長の言葉に、ただ呆然と男はその場で立ち尽くしていた。
 こんな偶然はあり得ない。日記帳の効果だろうか?
 驚きを隠せないままでありながらも、男はそう感じていた。
 すると、不意に背後の気配に気づいた。慌てて振り返る。視線の先には、社内のマドンナが立っていた。
「あの……今日の昼食、ご一緒してもいいですか? できれば二人で話したいことがあるんですけど」
「君が僕と? 昼食って……」
 夢のような信じられない展開に、耳を疑った男は問い返す。
「嫌ならいいんです。けど私……」
「喜んで行かせてもらうよ! 行先は君の好きにしていい。いや、男の僕が選ぶべきかな?」
 男は女性の申し出を受けると、食事の行き先を決めた。女性も悪い気はしなかったのだろう。
 女性は首を縦に振って了解すると、照れたようにその場を後にしていた。
 懐の日記帳を取り出すと、男は中身を確認する。
 今日の日付の内容は、
『日記帳に書いたことが現実となっている! 偶然とは思えない。
 契約の好転、課長への昇格、社のマドンナからの告白――
 僕は続きを書くことにする――』と、付け加えられていた。
 男はすぐさま迷うことなく、
『買っていたクジが一等であると分かる。配当金は――』の後に一千万と書き加えた。
 欲を出して高額な配当金を書けば、嫌でも注目を浴びる。それだけは避けたい。妥当な金額はこれ位だろうと男は考えた。
 そう、日記帳の力があれば、食いぶちには困らないはずなのだ。
「いい物を届けてもらった……誰が送り主か知らないが感謝しよう。僕は思い通りの人生をこれらからも綴っていけばいい」
 何の目的で、誰が届けたのかわからない日記帳――
 今更、持ち主が現れても手放さないと男は誓った。
      
 同時刻、社の前に配送車が停まり、配達人が車から降りていた。
 男に日記帳を届けた配達人である。
 彼は落ち着かない様子で、社内の様子を伺うと口を開いた。
「神様に届け物をしろと言われて渡されたが、なんとか無事に受け取ってもらえて良かった。どうやら人間は幸せに貪欲な生き物らしい。神様に実験結果を伝えなければ……しかし、思い通りの人生に、人は感動を得られるものなのだろうか」
 そう言うと配達人は次の届け先を確認して、車を出した。

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