誰にも見えないその影を




「僕、まだ怖いかもしれないけど、少しの間我慢できる?」


しー、と口に人差し指を当てながら言うと、男の子は頷いた。でもすぐにまた、怯えだした。


「おい姉ちゃん」


その直後、背後から飛んでくる恐怖に気づく。さっきの男の子の声が外に聞こえていたんだ。振り向くと、この子をここまで誘拐し、そして監禁していたその男が立っていた。


「何勝手なことしてくれちゃってんの?」


ただで済むと思ってる? と言い寄ってくるそいつ。男の子の震えは激しさを増すばかりだ。私は男の子をぎゅっと抱きしめるけれど、私もきっと、震えている。


男の手にある金属バットが鈍く光っている。その鈍さがまた怖い。


でも、ゼストはまだ外。私がこの子を守らなければならない。今この子を守ることができるのは、私しかいないんだから……!


「……勝手なことしてるのはそっちでしょ」こんな奴なんかに負けるな私。


「別れた彼女に未練があるのかもしれませんけど、この子を誘拐するほど彼女に振り向いてほしいのなら、こんなことせずにちゃんと向き合うべきなんじゃ――」


自分の胸の奥から出てくる言葉そのものは強気なんだけれども、身体だけでなく声までも震えている。私の声を遮ったのは、


「ガキがごたごたうるせえええええええええ!」


さっきとは比べものにならないくらいの、男の大声だった。語尾伸ばしすぎでうるさい、なんてのんきなことを考えている場合ではなくて、その男は金属バットを持つ腕を高く挙げる。


……なんだろう。その行為だけでその男がとても巨大化したように感じる。威圧感とでも言うのだろうか、その圧のようなものにすっかり私は腰を抜かしてしまっている。気持ちだけは負けないつもりでいたけれど、身体が限界のようだ。


アレで殴られたら終わりなんだろうな、と思いながらもどうにもできない自分が情けない。怖さのあまり、目をぎゅっと閉じてしまう。


でも、それでこの子を守ることができるなら、という思いもあって、男の子を抱える腕に自然と力が入る。


殴られたときの音ってどんな音なんだろう、と思わず考える。でも私が想像した音は聞こえなかった。というより、その音すら聞こえてこなかった。





「――勝手にどっか行ってんじゃねーよ」





代わりに聞こえてきたのは、ため息混じりの声だった。


それは確かに聞き慣れたもので、聞いているだけで安心できるものだった。


……とくん、とくん。


その鼓動に合わせてゆっくりと視界に光を入れていく。そこには私のよく知った背中があった。それはもう、ものすごく頼れる優しくて大きな背中。ずっと見てきた、彼の背中。


血だらけになってそこ立っているその声の主は、両腕で男の金属バットを受け止めていた。


「お前を探す俺の身にもなれってんだ」


ニヤッと不敵な笑みをこちらに向けながら。