誰にも見えないその影を




……まったく、動くなって言ったのにどうして来ちゃうかな。


だけど来てほしいとどこかで望んでいたことは紛れもない事実で。背後から聞こえたその声にこれ以上にないくらいの安心感を抱いたのも事実で。その声とともに現れた姿を見て動けなくなっている“母親”にざまあみろと言ってしまいたいのも事実で。


「お嬢様だか何だか知らねーけど、どこぞの“汚らしい小娘”には“汚らしい男の子”が似合うってもんだろ」


そう言って彼もといゼストは私の肩に手を置いてそのまま自分の方へ引き寄せる。簡単に言えばゼストと私は肩をピタリとくっつけた状態だということだ。どくん、どくん、という以前は正体がわからなくて耳障りでしかなかった音は、今では気持ちを落ち着かせる心地よいものになっている。


「あらあらゼストくん。それは一体どういう意味かしら?」


いつの間にか“母親”とゼストとのやりとりになっており、アスタさんもソウヤさんも、そしてもちろん私も黙っていることしかできない。


どういう意味かしら――その口ぶりはもうわかっていると言っているようなものだ。けれどもこれはきっとこの“母親”とゼストの間でしか成立していない。私には何が言いたいのかが少しも見えてこないのだ。それはアスタさんもソウヤさんも同じだろう。


「一番わかってるくせによく言いやがる」それでもゼストは取り乱さない。あのように返してくると見通していたのだろう。


そこまではっきり言ってほしいんなら言ってやるよ、とよく見る愉しそうな笑みを浮かべて言う彼の手には、また少し力が込められた。肩を通じてその温かさを改めて覚える。





「ルナには“汚らしいフィアンセ”がいるってその“完璧な許嫁”とやらに伝えて消えろっつってんだ」





……………………。


思考が止まったのは私だけではないと思う。だってアスタさんもソウヤさんも、あの“母親”でさえも、瞳孔を開いたままの状態でまるで時そのものが止まってしまったかのように硬直しているのだから。


ていうか……え? 今、何て言った……?


――ルナには“汚らしいフィアンセ”がいるってその“完璧な許嫁”とやらに伝えて消えろっつってんだ。


――――――フィ……


フィアンセェェェェェェェェェ!!?


待ってお願いちょっと待って! やばいよ頭がついていけないんですけど! フィアンセって何! アレですか! 一生守りますとか僕が幸せにしますとか二人で幸せになりましょうとか愛を誓いますとかいう約束を交わした男女関係をシャレオツに表現しちゃったアレですか!


「ゼスト待っ――」
「ルナ」


名前を呼ばれることで言葉を遮られ、その声にやはり衝動的に反応してしまう。何、と問いかけようとしたときにはもう遅くて――。


唇に優しく触れる“それ”は、場所も時も選ばず常に温かくて。