今日は快晴だ。もう曜日感覚なんてほとんどないけれど、こうやって外に出てみるとやけに街を歩く人の姿が多いように思う。私のことなんかどうでもよくて仕事ばかりしていた“あの人”もわざわざ来るくらいなのだから、土曜日か日曜日といったところか。
こういうときに限って親子で手を繋いで並んで歩く人々が視界に入る。つい二週間前までは子供と過ごしてたじゃん、なんて自分には言い聞かせるのだけれど、それとこれとは意味が違うことくらいわかっている。今頃リョウくんはお父さんと一緒に過ごしてるんだろうなと思うと、なんだか複雑な気分になる。どこまでも子供だなぁ、私。
家族と一緒に過ごしたい、家族にたくさん甘えたいという私の願いは、一度も叶ったことがない。私がこんなだから。“あの人”があんなだから。
そんなことを考えながら何気なく歩いていると、10年前まで暮らしていた家が見えてきた。『あの日』からなんとなく遠ざけていた家。売ったらしいという話を後でゼストから聞いた。
外見は当時のままだけど、きっと中はもうすっかり変わってしまっているのだろう。違う家族が楽しく過ごす場所となっているに違いない。あの家にとっては、私たちみたいな歪んだ“家族”よりはそういう明るい家族が住んでくれる方が嬉しいに決まっている。
そんな家の前を横目に見ながら通過する。「ママ、絵本読んでー」なんていう女の子の元気で可愛らしい声が聞こえた。そして「いいわよ」と答える母親の声も。
羨ましい、と思ってしまうのは、私自身が“あの人”への感情を断ち切れていないからかもしれない。あんなのが母親だなんて認めたくもないけれど、血が繋がっていることを覆すことはできない。本当は私もあんな風に、と家の中から聞こえてくる会話に思いを馳せる。
親子という関係に憧れを抱いていることは確かだ。自分には産んでくれた親がいて、わがままを言ったり甘えたり褒められたり、時には叱られたり。そんな関係が羨ましかった。だからきっと、それを私は無意識にあの『家』のみんなに求めていたのだと思う。
気づいてくれなくても私が叫べば振り向いてくれるし、無茶をしたときには心配してくれたり怒ってくれたり、悩んでいれば相談に乗ってくれたりもする。私に気づいて名前を呼んでくれる人だって、ちゃんといる。
気づいてもらえないことの方が圧倒的に多いけれど、それでも、あの『家』の心地よさや温かさが大好きなのだ。



