人間にとって最もつらいことは、きっと誰からも自分の存在に気づいてもらえないことだと思う。認識の反対は無関心。もう覚えていないくらい幼かったとき、誰かがそう言っていたような気がする。


私はそれを、生まれながらにして体験してしまった。その言葉の意味を、誰よりも早い段階で理解してしまった。それも、最悪の形で。


「――お母さん、私、友達と遊びに行ってくるね!」


それは10年くらい前――まあ私があの『家』で暮らすようになった日のことだった。ほら、例の『かくれんぼ事件』が起きた日ですよ。行ってきます、と出かけるときは欠かさずに言っていて、それでも「行ってらっしゃい」という言葉は返ってこなかったのだけれど、私にとってはそれが当たり前だった。自分が言った「行ってきます」に対して自分で「行ってらっしゃい」と心の中で呟く。私はそれで満足だった。


でも年齢を重ねていくにつれて、私は他人とのいろいろな“違い”に気づいて違和感を覚えていく。他の友達の場合は遊んでいたら必ず親が迎えに来ていた。ご飯の時間だから帰るわよ、なんて言われながらその小さな手を握られて。まあその子たちはみんな私を置いていつの間にか帰ってしまうのだけれど。


些細な事なのだ。でも、私以外の他の人間と過ごす日常の何でもない一面の中に、私はいない。映り込めるのはほんの一瞬だけで、その一瞬も儚いもので、すぐに消えていく。


かくれんぼで遊んでいる間は楽しかった。隠れるのが上手なのだと自分では思っていて、見つからないことが自慢だった。そのときはそういう感覚でよかったのだ。


みんなに捨てられるまではの話だけれど。


隠れていても見つけてもらえなくて、何時間待っても誰も来なくて、空は真っ黒に染まっていくばかり。立ち上がってみんなを探してみるけれど、もうそこには私以外の人影はなくて。


また、みんな帰っちゃったのか。何度「また」を繰り返したか知らないけれど、それは次第に「そうか」という言葉に変わっていった。


そうか、私はみんなから忘れられているんだ。みんなの意識の中から消されているんだ。


冷えた風が肌を撫でていく。水が空から落ち始める。私の頬を、水が伝う。


この水はどこから来たものなのかなんてどうでもよくて、それよりもこの誰もいない真っ暗な世界が怖かった。腰を抜かして動けなくて、そのうえ空からの水が体温を奪っていく。


誰か。誰か。誰か……。


私を早く見つけて――――。


そんなことを、あのとき何度願ったかな。もうこれっぽっちも覚えてないや。