誰にも見えないその影を




「待って、何なの? 何がしたいの?」


手首を掴む彼の手を何度も振り払おうとするけれどそれは全て叶わなくて、結局私はキッチンに行けないまま戻ってきてしまった。さらば、朝かも昼かもわからない私のご飯……。


いくら尋ねてもゼストは「黙ってろ」の一点張り。これじゃ埒が明かない。あの応接間に何かがあることはもうわかった。そしてゼストがそれを私に見せないようにしていることも。


「……応接間」


その名詞を出すと、びくりとゼストの肩が動いた。ここまで彼が驚くあるいは動揺するなんて初めてだ。それだけ私に知られてはいけない重要な何かがあの部屋にはあるのだろう。


「何があるの」


でも、私だってこの『家』で暮らす人間だ。ここで働く人間だ。そりゃ人一倍迷惑だってかけているけれど、でも、だからって私だけに隠されるのは納得がいかない。黙ってないで何か言えば、と普段のゼストからは考えられない様子の彼に言ってみる。


「……何もねえよ」


嘘だ。嘘発見器を使うまでもない。どんだけ下手なの。急に手を引っ張って応接間から遠ざけておいて何もないわけないでしょーが。


「ゼスト」


嘘の下手すぎる彼の名前をちゃんと呼ぶのはいつぶりだろう。彼に対する気持ちの正体がわかってからは、なんだか恥ずかしくて照れくさくてうまく呼べなかった。


また少し肩をびくっとさせてゆっくりを目を私に合わせる。ようやく目が合った、なんて思う時間なんてこれっぽっちもなくて、それよりも私は――


ようやく唇が合った、という表現をしてみたくて。彼との距離を、ゼロにする。


「隠さないでよ」不安になるじゃん、と距離を変えないまま呟けば、


「お前に言われたくねえ」と少し意地悪に笑ってみせた。そして、後悔するなよ、とそれだけ言って、私の返事も待たずに手を取って再び応接間へと引っ張り出した。


何がしたいんだかわからない。後悔するなというその言葉の意味もわからない。そもそもそれは私ではなくて本来はゼストに向けられるべき言葉だと思う。だってゼストは応接間で起こっている“何か”を私に見せたくなくて彼自身の部屋に連れてきたわけで、その見せたくなかった“何か”を見せて後悔するかどうかはゼストの問題なのだ。


“何か”を見て私が後悔するなんてこと、あるわけがない。


だけどそうやって能天気に考えることができたのは、このときはまだその応接間で起こっている“何か”の重大さを知らなかったからだ。


――行かなきゃよかった。あの瞬間、確かに私は後悔した。