『えー! 黎明館って、結構有名な老舗旅館でしょ? グランドシャルムもいいホテルだけど、負けじ劣らずって感じだよね? なんだ、美貴そこで働いてるんだ。実はさ、明日友達呼んでクラブでパーティーしようって話になってるの、美貴も誘おうって思ってたんだけど、黎明館って東京からずいぶん離れてるし――』

「行く」

『え……? いいの? でも……』

 予想外の返事に有紗の声が裏返る。「無理しなくていいよ」なんて言わせないとばかりにもう一度言う。

「行くって言ったら行く」

 今の状況から逃げているような背徳感はあったが、今は一秒たりともここにはいたくなかった。待ち合わせ場所と時間を確認すると電話を切って、すでに乾いた涙のあとを手の甲で拭った。

「はぁ……」

 窓の向こうから穏やかな潮騒の音が聞こえる。ささくれだった乱れた気持ちが徐々に落ち着きを取り戻してゆく。

 いつまでも心地よく響く波の音は好きだ。このまま眠ってしまいたい。ここに来て初めて味わう挫折に、美貴は翻弄されるがままになっていた。