その唇に魔法をかけて、

 美貴は漆畑の部屋に入ると、恭しく両膝をついて挨拶をした。
 
先ほど彩乃に無視されてしまったことは、とりあえず頭の片隅に追いやって、今は仕事にだけ集中すると決めた。

「失礼いたします。こちらのお部屋を担当させていただきます仲居の深川と申します」

 顔を上げると、恰幅のいい男性がラタン素材の座椅子にどかりと座ってくつろいでいた。座卓を挟んで向かいには、礼儀正しく正座をしている眼鏡をかけた男性がいる。

「ふぅん、去年はいなかった仲居さんだねぇ、新人さんかな? おい、牧田、酒の用意をさせろ」

「専務、そろそろお夕食の時間のようです。先に湯に浸かってはいかがでしょうか?」

 横に居た秘書らしき男性がそう言うと、脂ぎった顔をハンカチで拭い、専務と呼ばれたメタボな男がニッと笑った。

(ん? 専務? 今、専務って言ったよね?)

 今朝の朝礼で仲居同士こそこそと話していた会話がその時、美貴の脳裏をよぎった。

 ――嫌だね~まぁたあのセクハラ専務も来るのかな?

 ――去年大変だったよねぇ~悪酔いしちゃってさぁ

(もしかして……その専務ってこの人のことなんじゃ――)

 何かの間違いと思いたくても、この会社に専務はひとりしかいない。

(まさか、陽子さん……だから私に交代を頼んだの?)

 黎明館で用意されたマルタニ商事の日程と部屋割り表には○○様としか書かれていなかったため、漆畑が噂の専務であることに美貴は気付かなかった。

 やられた――。

 そんな言葉が内心を飛び交う。自分はまんまとはめられたのだ。そうとも知らずに安請け合いで返事をしてしまった自分の軽率さに腹が立つ。

(でもいい、与えられた仕事だもの……!)

(うまくやって見返してやる……!)

 美貴の負けん気根性がふつふつと沸き起こり、漆畑ににこりと笑い返した。