その唇に魔法をかけて、

 その時、ふと、先ほど花城に言われた言葉を思い出した。美貴は言葉をしばらく考えて、彩乃に言った。


「うん、ワケありっていうか……独りで来たよ」

「そっかー! ごめんね、詮索するようなこと言って。こういう田舎の旅館で働いてる人ってそれぞれ事情がある事の方が多いしさ、私なんかも両親が離婚して板前だったお父さんと一緒にここでお世話になってるんだ」

 彩乃の母親は数年前に他に男を作って出て行ったという、男手ひとつでなんとか父親に高校を卒業させてもらい、今は一緒に黎明館で仕事をしている。

(こういう境遇の人って、今までいなかったな……)

 美貴の実家は港区にある大豪邸、身の回りのことは家政婦がやってくれたし、なに不自由ない暮らしだったが、美貴は父親と一緒に仕事をしている彩乃が少し羨ましく思えた。


「お互いワケあり同士! 頑張ろう!」

「うん」

(私もワケありと言えば、ワケありだもんね……)

 彩乃に両手を握られて上下にぶんぶんと振られながら、美貴は乾いた笑いを浮かべた。

「ほらそこ! お喋りはおしまい! 彩乃、美貴ちゃんにお客様にお出しする朝食の給仕の仕方教えてあげて」

 後ろでかえでがパンパンと手を叩いて二人を急かす。

「はーい! わからないことがあったらなんでも聞いてね」

「ありがとう」

 黎明館での初日、美貴は従業員に恵まれたことにほっと胸をなでおろした――。