遡ること数時間前。

「……は? なんだって?」

『響也。まだ若いのにお前、もう耳が悪くなったのか? だから近いうちにそちらへ行くと言っているんだ』

 中休みに弓を引いて気分転換した後、爽やかな気分で午後から仕事に取り組もうとしていた矢先、一本の電話がかかってきた。電話の相手は、黎明館の先代であり花城の父でもある花城龍也からだった。

 花城龍也は黎明館の総支配人を退いたあと海外を転々と渡り歩き、まったく連絡を寄こさず自由気ままな生活送っていた。物心着いたときから花城に母親という存在はいない。顔も見たこともなければ話したこともない。父の口から母について語られたことは一度もなかった。そして大人になって父の性格を改めて思い知ると、母もこんな自由気ままな男に愛想が尽きたのだろうと納得した。

「なんだよ、今まで音沙汰なしだったくせに……いきなり帰ってくるその目的はなんだ?」

 龍也はいつも相手の都合などお構いなしだ。しかし、まだ現役だった頃の彼は、その当時住んでいた東京にまで名声が届くくらいやり手の経営者だった。そのことだけは否めないのが悔しい。

 花城は「不機嫌だ」というように、電話口でわざと長いため息をついた。

『そんな怖い声出すなって、お前が元気で頑張ってるか見学しに――』

「結構だ。黎明館も順調だし、毎日火の車で忙しいけどなんとかやってる。だからいちいち見に来る必要はない」

 特に用事がないのなら、あえて来なくてもいい。花城は頑なに拒む。

『まぁまぁ、見学というのは建前で、お前に大事な話があるんだ』

「大事な話って……?」

『だから、電話でするのもなんだからこちらから出向こうってわけよ』

 そんなふうに言えば、きっと食いつくだろう。その腹積りに花城は眉間に皺を寄せてますます不機嫌になった。

「勝手なことを……」

 いつものことだが、この男には振り回されっぱなしだった。しかし、黎明館を守っていくためには、どんな彼のわがままも目を瞑るつもりでいた。

「わかったよ……」

 花城は観念して返事をすると電話を切ったのだった――。