「君…何してるんだ?」
男はそっと少年に声を掛けた。
インターホンに伸びた手がさっと引かれる。
と、同時にもう片方の手に持たれていた刃物を男に見られない様にと隠した。
少年は黙ったまま俯いた。
帽子のせいか表情があまりわからない。
「こんな雨の中どうした?なにかあったのなら、おじさんが話を聞くよ?」
少年はゆっくり首を横に振った。
「おじさんにも娘が居るんだけど、こんな時間にこんな所で君を一人で、そのままになんて出来なくてね…。」
少年はずっと黙ったまま地面だけを見ている。
「おじさんの名前は五十嵐って言うんだ。君の名前も教えてくれないか?」
五十嵐は足をジリジリと前へと進める。
「その右手にある物おじさんに渡してくれないか?」
五十嵐は少年が何かをする。
もしかしたら自殺するのかもしれないと思った。
小さい娘と、もうすぐ産まれてくる命を大切だと思っている五十嵐にとって今、目の前にいる名前も知らない少年の命も同じだと思えた。だからこそ、見て見ぬフリなんて出来なかった。
「死のうなんて思ってないよな?話聞くから、その刃物おじさんに渡してくれないか?」
「邪魔しないで。」
少年の声は雨で掻き消される。
「えっなんて言った?」
一歩、少年に近付いた。
「僕は…僕は…。」
少年は両手でナイフを握りしめた。
刃の矛先が上を向いている。
五十嵐は咄嗟に少年の腕を掴んだ。
「離せ!!」
少年が声を荒げた。
「ダメだ!そんなことし…。」
それはあっという間の出来事だった。
腕を掴んだ瞬間、五十嵐は足を滑らせ少年に覆い被さる様に倒れた。
少年の帽子がフワリと落ちた。
下敷きになった少年は頭を打ったせいた、少し頭がクラクラした。
「おじ…さん?」
少年は自分に覆い被さる男の体を退かした。
自分の手にナイフがない事に気が付き辺りを見渡した。
「そん…な……。」
少年の手から離れたナイフは五十嵐の胸に深く突き刺さっていた。
聞いたことのない呻き声がする。
少年は座ったまま後退り、震える足を抑えた。
五十嵐は自分の胸に刺さったナイフを抜いた。
カランと音を立てて地面に転がる。
五十嵐の体に降る雨が赤く染まっていく。
「これは事故だか…ら、君は何も…悪くな…いんだ。おじさん…がドジ…しただ…けだ。」
少年の目から涙がボロボロと流れ出るが、それが涙と五十嵐は気付かない。
雨で洗い流されていく涙を五十嵐は確認出来ない。
意識が遠のいて行く。
「僕は…僕は…悪くないっ!」
少年は地面に落ちた帽子を拾い、ナイフを持って走り出した。
少年は無我夢中で走った。
一度も振り返らずに真っ直ぐに家へと向かい走った。
家に着き鍵を探す。
ポケットに手を突っ込み全ての物をぶちまけた。
なのに肝心な鍵が見当たらない。
鞄の中も探した。
ひっくり返し振ってみても鍵らしき音はしないし、出てもこない。
「まさか…。」
少年は鞄を玄関先に置いたまま来た道を引き返した。

そこに着くとまだ男が倒れているのがわかった。
近付くとまだ辛うじて息をしていた。
少年は辺りを見渡した。
さっき倒れた場所に鍵を見つけ拾う。
「パパ?」
少年は体を強張らせた。
ゆっくりと振り返ると、車の影に女の子を見つけた。
チューリップの絵が描かれた赤い傘を差していた。
見られた!!
そう思った少年は咄嗟に少女を殴ろうとした。
けれど脳裏に言葉が浮かんだ。
『おじさんにも娘がいるんだ…。』
おじさんが言っていた娘だと思った。
少年は女の子に背を向け、また走り出した。