今しかない、この瞬間を

どこの誰かもわからない人に、いきなりこんなことをされるなんて、どう考えてもおかしい。

でも、今、まさに、これは現実として起こっている訳で、そうするからには、彼には何かしらの意図があるのだろう。


とは言え、この状況に冷静でいられるはずがない。

焦りと緊張とドキドキと.....その他いろいろな感情が混ざり合って、ちょっとしたパニック状態だ。

だけど、あまりの動揺に、一瞬、痴漢野郎の存在を忘れ、この場で彼を問いつめようとしたら、それより先に、またまた予想外の言葉が聞こえて来た。


「今日って、初出勤でしょ? 」

「へっ?」

「だったら、もっとリラックスしてさ、初日、頑張っておいでよ。」

「.......うん。」


そう返事するしかないからしてみたけど、心の中は大炎上。

うそ!? なんで!?

彼は私が誰だか知ってるの?

だから、助けてくれたの.......?


混乱する私をよそに、彼はさっきから一点を見つめている。

そう言えば、抱きしめる前に笑顔を見せてからは、あんまり目が合っていないような?

よく見ると、彼の眼差しは、斜め後ろで俯いている三十代くらいのサラリーマン風の男性に注がれていて、怒りを表すかのように、鋭く睨みつけている。


もしかして、あれが犯人?

だとしても、気持ち悪くて顔が見られない。

嫌な気持ちが蘇り、小さく身体が震え出す。

怖くなって、思わず、彼の腕の中で顔を伏せた。


すると、その様子に気付いたのか、彼は私の頭を撫でてくれた。

まるで「よしよし」ってするみたいに、とても優しく、温かく。