どれくらいの時間しゃべっただろうか、父親が彼の言葉を遮るように言った。「あまり話すと体に障るから、少し寝なさい」彼はハッとした。自分は今体調不良で寝ているべき状態だということをすっかり忘れていた。父親は彼を寝かせ、布団を掛けてやりながらゆっくりと言った。「父さんな、お前とあまり話しをしてなかったろ?だからお前のことを何も知らなかったんだ。だけど今お前の話しを聞いて、お前が将来に希望を持って、毎日充実した生活をしているのがわかった。それで充分だ。」心から嬉しそうに言うと父親は部屋から出ていった。彼は涙を止めることが出来なかった。いつまでも泣き続けた。彼の嗚咽は止まることなく、横隔膜の痙攣で呼吸が苦しくなるほどだった。そして、仰向けで寝ている彼の涙は鼻腔を通り、気管に侵入し、徐々に肺に溜まっていった。僅か数ミリリットルの水でも、肺に侵入すれば人間は溺れてしまうのだ。彼はそれを理解する間もなく、嗚咽と呼吸困難のうちに意識を失った。
やがて、どのくらいの時間が経ったのだろうか、彼は胸に違和感を覚えて目覚めた。しかし身動きすることは出来なかった。本棚が、彼に乗っているのだ。どうやら地震があったらしく、本棚以外の家具も倒れたり傾いたりしている。本棚が倒れるより先に椅子が彼の横に倒れ、その椅子に本棚が支えられていることで出来た空間に彼はいた。しかも、本棚は布団越しに彼の胸を圧迫し、肺の涙を押し出したのだ。二重の奇跡によって助かった彼は、布団をずらしながら何とか本棚から抜け出すと、叫びながら居間に向かった。「父さん!」彼が居間の扉を開け中に入ると、父親は天井から落ちてきた電灯の下敷きになっていた。頭からは血が出ている。「父さん!父さん!しっかりしてくれよ!」彼は泣きじゃくりながら父親を揺すったが返事は無く、父親は既に息を引き取っていた。一度に二つの奇跡を起こした代償は、父親の命だったようだ。