「お前の息子は明日、溺れ死ぬぞ。今度はお前の聴力を代償に救ってやろう」建て付けの悪い引き戸と壁の隙間から中を覗いた彼は驚愕した。居間には、全身けむくじゃらの巨漢、しかも首から上が黒い山羊の頭になっている男がいたのだ。そしてそれにひざまずいている父親が言う。「どうぞ私の聴力をお持ち下さい。そしてどうか我が息子をお助け下さい。」
彼は眠ることが出来なかった。今まで自分に起きた奇跡の数々は父親がその身を代償にすることで起きていたのだと、理解した。そういえば幼稚園の頃、1人だけ長靴のおかげで落雷から助かったときに、父親は片肺を切除した。小学校に入り、屋上から転落したが、下に運動会用のテントがあったおかげで無傷だったときに、父親は暴漢に歯を全て折られた。数えればきりがないほど、色々なことが思い出された。そして自分が明日、溺れて死んでしまう運命で、それを父親が自らの聴力を代償に救ってくれるということ…。
彼は決心した。明日1日、部屋から出ないことにしよう、と。自分の部屋に居る限り溺れる様なことにはならない。風呂もやめておこう。そう考えて、彼は少し気が楽になった。自分が死ぬ目に合わなければ、父親の聴力を奪うこともない。翌朝彼は仮病を使い、学校を休んだ。そのとき父親に、学校に連絡してもらうよう頼んだ。父親は心配そうに声をかけてきたので彼は明るく笑って「今日1日寝れば治るよ」と言った。父親に笑いかけるなど、物心がついてから初めてのことだったが、真実を知った今は素直に心から笑顔を向けることができる。父親は、彼の笑顔に少し驚いたようだったが、思ったより元気そうだと思い安心した。そして「少しでいいんだ、何か話さないか?」と彼に言った。父親は、息子の声を聞けるのは今日が最後だと思っている。彼にはそれがわかった。だから、彼は話し始めた。
「…だから僕はね、頑張ろうと思ったんだ」彼はとめどなく話し続けた。学校行事の思い出、授業のこと、友達の話、将来の夢…。学校から帰った子供が、その日の出来事を親に話す、そんな当たり前のことを彼は今までしてこなかった。その分を一気に吐き出す様に、父親に向かって語り続けた。