彼は生まれてからずっと、運が良い。いや、どちらかと言うと悪いのかもしれない。それというのも、彼はかなりの確率で大事故に遭い、大事件に巻き込まれ、大病に冒されるのだ。だがその度に、奇跡の様な展開で窮地を脱する。だから、運が良いのか悪いのか、本人もわからない。ただ彼には、ひとつだけ確実に『自分は運が悪い』と思えることがある。それは彼の父親のことだ。彼の父親は貧相で、不健康で、頭は禿げあがり、目は落ち窪み、肌はシワだらけ…実年齢より10から20は年上に見られる。そんな父親を持ったこと、それが彼にとっての不運なのだ。ある日、いつもの通学路で事件は起きた。交差点の横断歩道で信号待ちをしていた彼の目の前を、明らかにスピードが出過ぎなトラックが曲がって行った。その時、荷台に満載されていた鉄骨が遠心力で彼の方へ飛んで来たのだ。ほどけた靴紐を結び直していなければ、今頃は串刺しになっているハズだ。また、奇跡が起きた様だ。
その日の夕方、父親が仕事現場で怪我をして病院へ運ばれたという連絡が入った。この怪我で、父親は左手を失った。
怪我のせいで仕事も失った父親は、家に居る時間が増えた。ある夜彼は、父親がぼそぼそ呟く声で目が覚めた。昼間仕事もせず寝てばかりいるから昼夜が逆転しているんだろう、と彼は思い、また今までのイライラも手伝って、父親の居る居間に文句を言いに向かった。引き戸を開けようとしたときに、聞こえる声が父親一人のものではないことがわかった。