凪の海

「泰滋ちゃん。コップで飲みぃといつも言うてるやろ。」
 泰滋は、各地に旅をする経験が少ないので、確かなことは言えないが、水の美味しさにおいては京都に勝る地は無いと考えている。井戸から汲み上げてさらさらと流れる水を見ると、もう喉が鳴ってコップに移し替えるももどかしくなるのだ。
 母親の小言にも笑いながら返事も返さず、居間の畳の上にごろんと寝転がった。腕枕をしながら木造りの天井のシミを眺める。確か今日は、千葉の女子高生と会う約束の日だった。会いに行かなかった自分を責める気にはならなかったが、会いたいと言っていたミチエの手紙を想うと多少心が痛む。
「泰滋ちゃん。」
 母親がそばに座って話しかけてきた。
「さっきな、あんたのお友達が来てな、これ置いていったで。」
「そこへ置いといて。」
「なんやらな、今日会った人が泰滋ちゃんに届けて欲しいて言うたそうや。」
 泰滋は黙って返事もしなかった。
「はよ、あけてみいや。」
「なんでや。あとでええやないか。」
「そやかて、生ものだったら腐ってまうし…。」
 泣きそうな母親の言葉に泰滋も動かざるを得ない。
「わかった。あけるよ。」
 仕方なく泰滋は半身を起こし、包みを開けた。中身を覗き込んだ母親は、顔をしかめた。
「なんやそれ、気色わる。」
「焼きハマグリや。」
「なんやそれ?」
 泰滋は、母の問いに答えもせず焼きハマグリが入ったビニールを取りだすと母に渡す。
「今夜の晩酌に、良い肴になる。おとうはんに食べさせて。」
「これ、食べ物かいな…おとうはんもよう食べへんと思うわ…。」
 母親が指先でビニールをつまんで台所へ持って行こうとすると、ビニールにメモが付いていることに気づいた。
「泰滋ちゃん。これなんやろ。」
 受け取った泰滋がその場でメモを開いた。

『いつもお手紙を頂戴しているお礼です。粗末なものですがご家族の皆様のお口に合えば幸いです。追伸、本日お会いできず残念でした。宇津木ミチエより』

「ミチエって…確かこの前の手紙のひとやろ?」
「なんやおかあはん、ひとのメモ覗かんといて。」
「なんでその人から焼きハマグリが届くんや?」
「土産に千葉の名産品を持ってきたんやろ。」
「関西の人やないの?」
「千葉の人や。今、修学…いや、観光で京都に来ていて、こちらに居る合間に会えればと思っていたんだが、忙しくて会えへんかった。」