郁子の表情は、貢とは対照的に明るく弾んでいる。

郁子は「やった!」と密かに拳を握る。

そして澄まし顔で、朗々と曲名をコールした。


「ショパン前奏曲、作品15番」



――雨だれ……


彼は一瞬、頬を強張らせ短い溜め息をつき、凍てついた鋭い目で郁子を見て視線を外す。

郁子は僅かな間が気になり念を押す。


「ショパンの『雨だれ』」

彼は無表情で「わかった」と答えて席を立ち、ゆっくりピアノの前に進む。


 彼の噂は連日、校内のあらゆる場所や学生達から
様々な憶測も含め囁かれている。

5月の連休明け。
彼は私立聖諒学園音楽科2年生に転校してきた。

ピアノ専攻も副専攻のヴァイオリンも、首席レベルの学生を受け持つ教授に師事している。

編入試験の実技に立ち合った教授が直々に、彼の指導を望んだと言う。