あの日、知り合った翌年の初夏とも呼べる日、はじめて拓人が詩音の家を訪れた日に、
詩音は自分の部屋でモオツァルトをピアノで弾いて聴かせてくれた。

そしてそのあと、ふたりでリヒテルを聴きながら高校生の時の、友人の遭難死について拓人に話して聞かせた。

拓人はその時、恐らくは他の人たちと異なるのであろう詩音の考えを「美意識」と言った。
そして、同じ詩音の内的心情や思索形態を、詩音の父親は「死生観」と表現した。

今となっては、これは言葉の違いだけであり、同じ詩音の内面を表しているはず、拓人にはそのように思えた。

そして詩音の短い人生の中で、少しずつ心のなかに沈潜されていった何かが自死の道を選ぶ、ということとして現れた、そのように思えてならなかった。

ルートヴィヒは自らの内面を、城の建築という具現化した形で表現しようとした。
一方の詩音はといえば、形あるものとして他人の目には触れることの出来ない「自死という生き方」で自己の精神と物語を完結させた。

それは一見異なるようであって、実は同じことではないか、拓人にはそう思えた。
そしてやはりルートヴィヒと詩音は似ているのだ、と思わずにはいられなかった。

 ミュンヘンの夜風に包まれながら美里と会っている一方で、自分はきっと死ぬまで詩音を忘れないであろうと、拓人は思っていた。

これからも、ずっと詩音を愛し続けるであろう、それは間違いのないことのように思われた。そして自分が愛し続ける詩音はあくまで生身の詩音であろう、と思った。

しかしそれは、美里に対する裏切りとか、背信、背徳というものになってしまうのだろうか?拓人に、答えは出せなかった。                 

その時
「美里はすべてを知っているのでは?」   
拓人はふと、その様な感情にさらされた。

美里が一心不乱にナイフ&フォークを使い、料理を切り分けている姿を見ながら、
そう感じたのである。

それは「事実」としての自分と詩音とのことではなく、「真実」としての自分と詩音のことを、であった。                   

「それはたぶん、間違いのないことだろう」      

拓人の心に浮かんだその思いは、彼の心の中で、強い確信へと変化して行った。
                                             

自分は七年間ものあいだ、ずっと苦しんできた。詩音の死について、間違いなく自分に責任があるはずだと、拓人は思い続けてきたのであった。

きのう詩音は「永遠の幸せを手に入れるために」と言った。

しかしそれは、そうあって欲しいと願う心が、自分に見させた夢だったのではないか?
と拓人は自身を疑ってみた。

そして仮に詩音の自死の理由がそうであったとしても、
詩音の心の不安と怖れを理解し、救い出してあげることが出来なかった後悔からは逃げようがない、と思えた。

自分は生涯、詩音を失った悲しみと喪失感をたずさえて生きて行くのかも知れない。
しかしそれは決して背負わされた十字架ではないのだ。
拓人の心にはいま、そのような感情が芽生えはじめていた。                             

 
 「明日は、アルテ・ピナコテークに行ってみないか?」

拓人は、まだ料理に悪戦苦闘している美里に言った。

「あ、る、て・・・?」             

美里は不可思議そうな表情をして、手にしていたナイフ&フォークを止めた。                      
「そう。アルテ・ピナコテーク。そしてそのあとは市庁舎へ行ってみよう。運が良ければ『からくり人形』に「出会える」かも知れない」                   

「うれしいわ」                    

美里は答えた。                    


「そして市庁舎のあとは、ニンフェンブルグ宮殿にも行ってみよう」                 
拓人は、自分でも幾分はしゃぎ過ぎかと思えるほどの声で、
美里に話しかけた。           

「うれしいわ」                     

美里は二度とも、同じ返事をした。しかしそれは二度とも、
しっかりと感情が込められ、強く拓人に伝わった。


『Blowin‘In The Wind』

そのとき、どこからともなく、ディランの曲が聞こえてきた。

それは落ち着いた石畳の街路に、ふっと訪ね歩いて来た旅人のように拓人には思えた。

「答えは風の中に舞っている」

ミュンヘンの寒空の下で、彼はギター一本とハーモニカだけの演奏でそう歌っていた。

しかしそれは、力強く人々を導こうとする性質のものではなく、自らも答えを得ていない求道者の魂の叫びではないのか、拓人にはそう聴こえた。

そして拓人は心の中でもういちど、その歌詞をくちずさんでみた。

『The answer is blowin' in the wind.』


「ワインをもらおう。そしてもういちど、再会を祝おう」

拓人は、意を決したように、美里に言った。

「うれしいわ」                   

美里は三度目も同じ返事をした。
しかし三度目の返事はもう雑踏の音にかき消され、拓人の耳にはほとんど届かなかった。
美里は泣いていた。涙を流していた。

美里の流した涙は大きくこぼれ落ちる様に頬を伝い、そして彼女の足元へと落ちた。
そして石畳の舗道へとすい込まれていった。

「泣くなよ」                    

拓人は美里のそばに移り、涙を拭ってあげた。
美里は拓人の肩にまるでもたれ掛るようにして泣いた。

いつの間にか「風に吹かれて」は拓人の耳から消えていた。

「ほんとうに、流れていたのだろうか?」 

今になって拓人は、先ほど聞こえたディランの歌が、空耳であったような気がしてきた。  

ウェイターが、先ほどオーダーしたワインを持ってきた。
ミュンヘンの街は、もうすっかりと暮れようとしていた。
舗道を隔てた街路樹の向こうの夜空に、かすかに「ふたつの大きなネギ坊主の頭」が見えた。           
「明日は、あそこにも行ってみようか」  

拓人はひとりごとのように言った。                

拓人は美里にワインのグラスを持たせた。 

「再会を祝って!」               

ふたりはグラスを合わせた。グラスとグラスのぶつかる音が、
小さくあたりに響いた。

「うれしいわ」              
美里の言葉は、とぎれとぎれの涙声になっていて、もう拓人には聞き取ることができなかった。   


しばらくしてから気がつくと、先ほどまでの月明かりはすっかり雲に隠れ、あたりは急に冷え込んできた。
街を歩く人々たちの足は速まり、思い思いにコートの襟を立てたり、あわてて雨をしのげる場所をさがしているようであった。

わずかに小雨が降りだしてきたのであった。カフェの外に席を取っていた何人かの客が、
店の中に移動した。美里は右手をかざして
「降ってきたよ」
と、拓人に言った。


「そうだね。降ってきた・・・」

拓人は薄暗くなった夜空を見上げたが、それでもなおそこを動こうとは思わなかった。
この雨に打たれてみたい、そう思っていた。

「君は大丈夫かい?」

拓人は薄手のコートを羽織った美里の肩に、自分が着ていた
セーターを掛けてあげた。


「私は平気よ、これくらいの雨なら。それに、この街のこの雨、何だかとても素敵だわ」

美里はしっとりと答えた。

それは感傷的と言うよりは、情緒が充分に感じられる言い方であった。
美里もこの雨に何かを感じずにはいられない、そのような心持ちなのであろうか、と拓人は想像した。


『涙は雨になり、雨は涙である』

 あの日、七年前、詩音とノイシュバンシュタイン城を訪れた日に降った哀しい雨。
そして今、こうして美里と自分を濡らす雨。

拓人はその「ふたつの雨」に出会って、はじめてそんなふうに思ったのであった。

きっと、ルートヴィヒが流したであろう涙も、きのう城の中で詩音が見せた涙も、
そしていま美里の頬を伝って落ちた涙も、拓人にはすべてが同じように思われた。

そして、それぞれが流すそれぞれの涙は、きっとその本質自体のすべてがこの上なく美しく、なんの自意識的な意図もないままごく自然に心の中から溢れ出たものであり、それは苦しみや悩み、愛憎や猜疑、不安、そして過去や未来など、この世のあらゆるものを洗い流して行くのではないか、拓人は今、そのように思っていた。


そしてそのすべてが洗い流されてしまったあと、それでもなお残るものがあるとすれば、それこそが真実の愛であり、永遠に残る美しい思い出と言えるのではないか、拓人にはそのように思えてならなかった。

 

                                           終