クラウンホテル、2505号室。
相手に指定されたのは、奇しくもあの日真依子と契約を交わしたのと同じホテルの、同じ階。通路を挟んで向かい側の部屋だった。
都内ホテルの中では、老舗の部類に入るこのホテルは、他の外資系ホテルや流行のラグジュアリーホテルとは一線を画し、昔ながらの落ち着いた雰囲気と、きめ細やかなサービスが売りだ。
これも、そのサービスの一環か、従業員用の入口の扉を開けると物腰の柔らかい年配のコンシェルジュが待っていた。話がすでに通っているのか、業務用のエレベーターに乗せられて25階まで上がり、部屋の前まで案内される。その間に発せられた言葉は最小限で、「ようこそ」と「ごゆっくりお過ごしください」のみだった。
できれば、“ゆっくり”はしたくない。
そう心の中で呟きながら、部屋のベルを鳴らす。しばらく待っていると、スイートルームに似つかわしい重い扉がゆっくりと開いた。
そこに、立っていたのは。
まったく想像していなかった人物だった。
年相応の少しやつれた顔で、こちらを懐かしそうに見つめていた。
人と接することも多いため、普段から身なりはそれなりに整えているのだろう。
深くなったほうれい線は隠せないものの、顔には丁寧にメイクが施され、髪は白髪も無く綺麗にセットされていた。
「征太郎、久しぶりね。」
気品に満ちたその佇まいは、県会議員の妻に相応しいものだった。
「とにかく、中へ。」
数十年ぶりだというのに、特に取り乱すこともなく、俺を中へと促す。その様子を、俺もまた冷静に見つめていた。
ここまで来て帰るわけにもいかないから、求めに応じて部屋の中へ足を踏み入れる。
部屋の中央のソファへと通された。
間取りは以前に真依子と泊まった部屋と方角が対称なだけで同じだ。
「本当に久しぶりね。」
あらかじめ用意されていたのか、テーブルにコーヒーカップを二つ置きながら、二度目の「久しぶり」を口にする。
俺は、覚悟を決めて口を開いた。
「お久しぶりです、お母さん。」
あの頃、確かに口にしていたはずの呼び名で呼べば、目の前の貴婦人の瞳にはたちまち涙が溢れ始めた。
「ごめんなさいっ……」
そのまま、こぼれる涙を隠しもせずに、頭を下げる彼女を見ていた。
何ということだろう。
一筋縄ではいかないとは思っていたが、まさか硴野に送り込まれたのが、この人物だったとは。
俺にとっては、まさに最強の伏兵かもしれない。
生みの母である本庄紀枝(ほんじょうのりえ)を前に、俺は内心頭を抱えていた。



