タバコを灰皿で揉み消した彼は、ベランダからようやく退散する。

もうすっかり日も落ちて、ついでに手もかじかんできていた。


伊達に続いてリビングに足を入れると、すぐ目につくのはその絵だった。

額縁に飾られたそれは、確かに涙を流しながら笑っている女性像なのだが…アキは無理にそこから視線を外す。
胸の奥でこそばゆい想いが沸き上がるからだ。



「そういえば、おかげさまで雑誌が出てから、絵の依頼が多数来てね…ああ、ミルクティーでいい?」


ぺたぺたとキッチンへ歩きながら、彼はそれなりに重要なことをさらりと言ってのける。
アキがその高い背を追う。



「えっ、どんな依頼ですか」

「個展を出さないかっていう…まあ、そのために作品をまた描き始めなきゃならないんだけど」

「依頼、受けるんですか」



二人分のミルクを鍋で温めながら、彼はアキを見つめ直した。



「そうだね…君みたいに、私の絵を喜んでくれる人がどこかにいるかもしれないから」


それは心境の変化ですか、と彼女がからかうも、伊達は否定も肯定もせず、ただ曖昧に笑っただけだった。

その代わり彼はカウンターを繰り出す。


「何しろ、初対面で熱烈な告白を受けたからねえ。『ずっと大好きでした』なんて」と。


冷蔵庫へ牛乳パックをしまう伊達に噛みついたのは、もちろんアキである。



「違います!あれは、伊達さんの絵に対して言ったんです」


「そうだっけ?」

「そうです。勝手に記憶をねつ造しないでください」


マグは二つ。同じベージュ色のものを。



「じゃあ、本人のことは?」


戸棚から紅茶葉を取り出しながら、彼はサラリと言った。アキが男を見上げる。



「…その絵を描いている俺のことは?」


沈黙に、伊達はようやく隣の彼女を見下ろした。

その悪意ない穏やかな笑顔に困惑するアキは、苦く笑う。



「伊達さん…今まで、一人称『私』だったじゃないですか…何で急に」


ガス台で、火が燃える。

静かに静かにミルクが温められる音は、幻覚的な温かさすら感じさせる。



「さあ、どっちが本当の『私』だろうね」


伊達は、その目をゆっくりと細めた。

空気はいつの間にか彼の視線で官能的なものに変わっていく。



くたびれたトレーナーの男は、アキに近づき、密かに囁いた。

紳士的じゃない俺は、嫌い?と。



その言葉は、彼女の足を床へ縫い付ける。

喉まで出かかった言葉は結局口に出せなかったが、代わりにアキは俯いて小さく首を振った。




その可愛らしい肯定に、伊達は静かに笑みを深めていく。

そしてガス台の火を止め、そっと彼女の耳へ言葉を落とした。わざと自分の息が、それにかかるように。




「…ソファ、いこうか。可愛がってあげるから」




彼女が拒否の言葉を紡ぐよりも早く、伊達の手はアキの肩を抱きすくめる。



「えっ、あの、私、今日は遅くなる前に帰る予定だったんですが…!」

「うん。また明日から絵の制作に入るから、少し鋭気を養わないといけないんだよね」



全く通じない会話に、彼女は抵抗する間もなく再びリビングへ戻された。


そうして伊達はどっかりと自分だけソファへ座りこみ、両手を目の前の彼女に広げる。



「伊達さん…私、特別美人でもありません」

「うん?」

「それに、女の子らしくも出来ません。絡んでくる酔っ払いには立ち向かうような性格です」

「うん」

「それでも…いいんですか」


蚊が鳴くような頼りない声。自信のないその一言に、伊達は両手を広げたままだった。




「…君がもし20歳でも40歳でも、私は好きになってたよ」





ずるい。

アキは直感的に思った。



このタイミングで、甘い言葉はずるい。



彼は、自分で八割ほどシチュエーションを整えるくせに、最後の最後でアキ自身に選択させるように仕向ける。

本当は答えなんて、彼が望むものしか用意してないのに。






全ての出口を塞いだうえで、その迷路で彼女が迷っているのを上から眺めて楽しむ。

伊達圭介は、そういう男だ。






「……おいで?アキ」



穏やかに笑う伊達に、彼女はその手に絡められるように柔らかく捕らわれる。






彼は本当に紳士なのか否か。

それが分かるまで、まだしばらくかかりそうだ。










【完】