あの男

「悪い、遅れた」


鼓膜を震わす低い声。


振り向けば、彼が立っていた。

走ってきたのだろう、息を荒げている。




「大丈夫」

私は微笑んで彼の手を取る。








―――今でも。


男の手を取ると、あの男の手を思い出す。

身体をあわせると、あの男の身体を思い出す。



ふとした瞬間、今はもうこの世のどこにもいない、あの男を思い出す。







『大丈夫――なにもかもよくなる』



あの頃の私の中に静かに沁みた、言葉を思い出す。






今日も、あの男がつけていた腕時計は、私の手首でキラリと輝く。













―END―