「…今日、約束の時間に遅れてきたのは、わざとなんだ」

「……っ?」

「そこで桐谷がどうするか、試してみたいと思った」


瀬戸くんはわたしに背中を向けたきり、ポツリとつぶやいた。


その言葉に、わたしは俯いていた顔をあげる。


「もしもその時、桐谷が何もしないで、以前のようにただジッと俺を待っているだけだったとしたら、他に泳げる場所を探してでも指導を続けてもいいと思った。でも今日の桐谷を見て、俺が教えることは何もない。その必要はないと思ったんだ」


そう話す瀬戸くんの表情は、今のわたしには見えない。分からなくて。


何ひとつ言葉をかけられずにいると、今も瞳に映る背中の向こうで、瀬戸くんが悲しく笑った気がした。


「…矛盾してるのかな。桐谷をそうさせたのも、そうさせたいと思ったのも自分なのに」

「…え…?」

「俺がついていなくても、自分の力で泳ごうとした桐谷を見て、最初は嬉しく思ったと同時に、内心すごく寂しい気がしたのは、指導者としての意に反するのかな」

「?瀬戸くん…?」

「このままずっと桐谷は泳げなくて水嫌いだったら良かったのにって、一瞬でもそんなことを考えた俺は最低かな」

「……っ」

「桐谷がこれからも一生泳げないで溺れたままだったら、俺がその分傍について見ていてあげる理由ができるのにって」


瀬戸くんの言葉に、わたしは溢れた涙が止まらなくなる。


そしてそれは一気に押し寄せて強くなり、声も出せなくて。


それでも伝えたいと、いくら必死に首を横にふって否定しても、

今もわたしに背を向けたままの瀬戸くんに、この想いは届かなくて。


こらえきれずとっさに駆け出して、近づこうとしたその時、瀬戸くんが口を開いた。


「でもその感情は、前に進もうとしている桐谷を阻むものでしかないから。捨てることにした」