あの日、あの時、君といたモノクロームの夏。

 帰宅した私は、母に祖父の被爆体験記のことを話す。母は「同姓同名じゃないの?」と言っていたが、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館から自宅に電話があり、登録されている『守田紘一』の被爆時の経歴や状況から、祖父であることを確認し涙を零した。

「私達には何も話さなかったけど、お祖父ちゃんは決して忘れたわけではなかった。お祖父ちゃんは核兵器の悲惨さを後世に伝えたかったのね。音々、ありがとう。お母さんの知らないお祖父ちゃんを見つけてくれて、ありがとう」

「お母さん……」

「去年お祖父ちゃんが入院していた時、お母さんとお父さんと瑠美で毎週お見舞いに行ってたでしょう。お祖父ちゃんは集中治療室で87歳の誕生日を迎えたの。その時に病院で撮影した写真を見せたら、不思議なことを言ったのよ。病状のせいか、痴呆のせいかよくわからないけど、おかしなことを言ってね」

「おかしなこと?」

「写真の音々を指差して、『音々さんじゃ。鉄道寮で、音々さんに白米のおにぎりをもろうてのう、軍士と食べたんじゃ。あん時のうまさは一生忘れられん。また音々さんのおにぎりが食べたいのう……』って、お母さんは『元気になったら、音々にいくらでも握らせますよ』と言ったの。お祖父ちゃんは嬉しそうに笑ってた。鉄道寮に音々がいるはずないのに、痴呆が進んでいたのかな」

「お祖父ちゃんがそんなことを……」

 お祖父ちゃんは痴呆なんかじゃない……。

 あの日のことを、私のことを、母に話したんだ。

 ◇◇

 ―1945年8月6日、早朝―

『白米のおにぎりじゃ…』

 時正君のお父さんに鉄道寮まで送ってもらった私は、お婆ちゃんと一緒に作ったおにぎりの包みを広げる。空腹を我慢していた2人が、ゴクンと生唾をのむ。

『どうぞ召し上がって下さい』

『食うてもええんか?軍士、桃弥君、遠慮のうもらおう』

『そうじゃな。腹が減っては戦は出来ん』

 紘一さんと軍士さんは両手でおにぎりを掴むとガツガツと貪り食った。

 私はおにぎりを右手でひとつ掴むと、左手を添え桃弥に差し出す。

『桃弥君もどうぞ。お腹鳴ってますよ』

 あの日、ビラ配りのため無断で作業を休み、厳罰として夕飯を食べさせてもらえなかったのだ。

 ◇◇

 祖父の話したことは、全部真実。

 祖父は……
 私が、あの時の『音々』だと……気付いていたのかな……。