母(綾)は私に会釈し、穏やかな笑みを浮かべ病室に入る。

 母が来るとは思っていなかった祖母(蛍子)は、ベッドに横たわり目を丸くしている。

「お母さん、入院だなんて驚かせんで」

「綾、どしたんね。何しに来たん」

「お母さんこそどしたんね。取り敢えず、入院に必要なパジャマやタオルを持ってきたから。他にいるものあったら電話してね」

「お父さんが綾に電話したん?あれほど、美紘や綾には電話せんでいいと言ったのに」

「なに言っとるん。入院するんだから、ちゃんと知らせてくれんと。ずっと体調が悪かったん?我慢せんと、早く受診せんからこんなことになるんよ」

「体の不調は更年期だと思っとったんよ。風邪で微熱が下がらんでね。近所の内科で検査したら、白血病かも知れんって言われたんよ。綾、そうなん?正直に話してや」

「白血病?患者に不確かな病名を言うなんて、その個人病院ありえんね。そんなの信じなくていいよ。お父さんに聞いたら貧血らしいよ。輸血が必要なくらい貧血だなんて、ほんとに心配させんで」

 母は入院に必要なパジャマやタオルを引き出しに収めながら、祖母に話し掛ける。
 祖母は貧血と聞き、少し安堵したように見えた。

「貧血ならいいけど。この病院に来ていきなり車椅子だし。お祖父ちゃんや瑠美のこともあるし、美紘の出産もあるし、入院なんてしとれんよね。通院にならないか、綾から先生に聞いてみてくれん?」

 母は祖父から病名を聞いているはずだ。それなのに、祖母に貧血だと嘘をついた。その心中を思うと、胸が締め付けられるように痛む。

 私は未来を知っている。
 祖母がこれから苦しい闘病を強いられることも知っている。

 祖母の命日も……知っている。

 家族との時間が……
 あと僅かだということも……。

「お母さん、そんなこと先生に言えるわけないでしょう。しっかり治療しんさいよ。家には私が時々顔を出すし、美紘姉ちゃんはまだ妊娠9ヶ月だし、出産までには退院出来るよね」

「だといいけど……」

「病院は退屈でしょう。暇潰しにと思って、刺繍セットと週刊誌買って来たよ。今までお母さんは頑張りすぎたんよ。去年私と美紘姉ちゃんが結婚しから、その疲れも出たんよ。少し休養しなさいということよね」

「忙しいのに休養なんてしとれんよ」

 祖母は笑いながら刺繍セットと週刊誌を受け取り、優しい眼差しで母を見つめた。

 互いが互いを気遣う様子に涙が溢れそうになり、いたたまれない気持ちで廊下に飛び出した。

 暫くして、瑠美お姉ちゃんも学校を早退し病院に駆け付けた。瑠美お姉ちゃんも祖父から病名を聞いているはずだ。

 それなのに母も瑠美お姉ちゃんも祖母を囲んで冗談を言い合い、廊下には時折笑い声も響いた。

 祖母の寿命を知っている私は、3人の笑い声を聞きながら無力な自分に涙が溢れて止まらなかった。

 以前読んだ原爆に関する資料には、“原爆投下により急性放射線症を発症したものは、造血組織や生殖組織、腸管組織が障害を受けやすい”と記されていた。

 疎開をしていて直爆を受けていない者も、のちに広島に戻ることで被爆し、白血病を発症する例はあったと聞いたことがある。“巨大なキノコ雲が降らした黒い雨は、雨を浴びた者をも被爆させ、土壌や河川なども汚染し被爆の被害を拡大した。”

 祖母が疎開前に住んでいた家は、原爆ドームにとても近い地区だったらしいと母から聞いたことがある。

 でも、戦時中のことは、母もそれくらいしか知らない。

 祖父も祖母も、あの日、あの時、自分達が目にしたことは口を閉ざす。それほどまでに、あの日の惨状は心に深い傷を残した。

 祖母が急性骨髄性白血病を発症した事実が原爆と無関係だったとしても、私の心の中に小さな蟠りが残った。