携帯電話を手にしながら、彼を待った。
どこかですれ違ってしまって、違うところで待っているのではないか。

彼を待たせてしまっているのではないか。

そんな考えにとらわれて、目線をきょろきょろさせていた。

すると、誰かに突然肩を叩かれて、身体をビクっと震わせた。

……!?

「りな、ちゃん?」

顔を覗き込まれて、目が合った。
茶色い髪に似合わない、丸い黒目にはキョトンとする私の姿が映し出されていた。

目の前に、白いTシャツに黒のジャケット、ジーンズにスニーカーを履いた私より背の高い男の子。

服装は地味だけど、制服と印象が違う。
いや、むしろこれくらいがちょうどいい。

普段の私は、こんなオシャレじゃない。

「こんにちは。
改めて、桐原 拓実です。
今日はわざわざありがとう、よろしくね」

「こちらこそ。
岩崎 理名、っていいます。
よろしくおねがいします……」

もっとちゃんと頭を下げるつもりが、会釈くらいの角度にしかならなかった。

「いいと思うんだよねー。
そんなカタくならなくても。
同い年じゃん?
俺と理名ちゃん。

だから、気軽に拓実くんって呼んでよ」

彼の言葉に甘えさせてもらうことにした。

「行こうか、おいで?」

拓実くんの後について改札を出て、来た電車に乗る。

「みなみとうと」駅で降りて、駅前の賑やかな喧騒からは少し外れた路地に入る。

こんな雰囲気のところは初めてで、つい、背の高い拓実くんの後ろに隠れてしまう。

高校生が、こんな高そうなところ、いいのかなぁ。

『フェリチタ』という名前のお店の玄関を開けると、チリン、という鈴の音が、来店客を知らせた。

照明の明るい、広々としたお洒落なレストランだった。
1人ではまず入らないだろうというところ。

長い髪を後ろで束ねた女性が私たちを迎えてくれた。

「いらっしゃいませ!
お2人様ですね?
只今の時間は全席禁煙となっております」

制服姿だったら言われることのない台詞。
少し新鮮だった。

窓際の、2席に案内された。

私が自分の背中と椅子の背もたれの間に鞄を置いたのを確認すると、拓実くんも向かいの席に座った。
メニューを私が見やすいように方向を変えて差し出してくれた。

「好きなの選びな?」

「あ、じゃあ、そうさせてもらう。
ありがとう」

メニューを見ると、イタリアンレストランだった。
少し迷ってから、パスタとドリンクバーに決めたことを伝える。
 
彼が呼んでくれた、先ほどと同じ店員さんに、パスタとドリンクバー、ハンバーグとドリンクバーをそれぞれオーダーした。

店員さんが席を離れた後、頬杖をついて私を見つめてきた拓実くん。

その視線に、赤面することしかできない。

男友達の麗眞くんに見つめられるのと、意中の人である拓実くんに見つめられるのでは、勝手が違う。

心臓の音がうるさい。

話そうか考えていたことが、頭から抜けてしまった。

「……?
私が、どうかしたの?」

わたしのバカ!
同じようなニュアンスで、もう少し可愛い表現とかあったでしょう!

こういうところで、恋愛偏差値の低さが出るのだ。

「眼鏡。
頭良さそうに見えて高嶺の花に見えるし、コンタクトにしたらいいのに。

あの電車の中で初めて会ったときからずっと思ってた」

「え?
そう?
……ありがと。
前向きに、考えてみる」

こんなことは今まで生きてきて言われたことがなかった。
上手く次の言葉が返せなかった。
照れと気まずさを隠すように、ドリンクバーを取りに向かう。

こういう時に、連れがいると楽だ。
盗まれては堪らないと、1人で外食するときにドリンクバーを頼むと、荷物ごと持っていくのだ。

連れが荷物を見ておいてくれると、飲み物をじっくり選ぶ余裕が出てくる。
素敵なことだ。

アイスコーヒーを入れて、席に戻る。

私を待ち構えていたように、彼も飲み物を取ってくるようで、席を立った。

そっと、自分の左手首に触れて、脈をとってみる。
普段より速かった。いつもの倍の速さで脈打っているように錯覚してしまう。

自分を助けてくれた男の人と2人でいるだけ。それなのに。

こんなに、ドキドキするものなのか。 
医者志望だというのに、初めて知った。

「脈なんて測って、何してるの?」

ビクッと顔を上げると、拓実くんが私を覗き込んでいた。
私と同じアイスコーヒーが、彼の座る側のテーブルに置いてある。
もう、飲み物を取り終えて戻ってきたらしい。

彼はおもむろに、自分の左手首を私に差し出した。

「え?」

「俺のも、測ってみる?」

そう言われて、そっと彼の左手首近くに指を当てる。
自分のは何度もあるが、人のを測るのは、これで2回目だ。
1度目は、宿泊オリエンテーション前の麗眞くんの家で。
椎菜がのぼせたときだ。

2度目は、いま目の前にいる人。

手の震えを抑えて、まず、自分の人差し指~薬指をそろえて第一関節より末梢にある患者さんの橈骨《とうこつ》動脈という、人差し指の延長線上で、手首の始まり辺りから1、2cm上のところに置いた。

中指で拍動を取る。

規則正しい音が、速いリズムで聞こえた。
高校生といえども、脈拍の平均値は50~100の間だ。
平均値の間にはいると思う。
それにしても、脈が速い。

もしかして、拓実くんも、私と同じで、緊張してるの?

「速い……ね。
緊張してる?」

「うん、測り方も合ってる。
手つきは俺より上手いね。
緊張してないわけないよ。

あわよくば関係を進展させたいと思ってる女の子と2人でいるからね。

あ、普段はちゃんと正常だと思うよ?
健康診断でも何の問題もなかったし」

「さ、せっかくだし。
今日の記念に、乾杯といこうか」

拓実くんは、グラスを軽く私のそれにギリギリのところで置いた。
私はそれにならうように、急いでグラスを持って、かすかなガラス音を響かせた。

彼の、店内のBGMにかき消されるくらいの小さな「乾杯」の声と共に。

「ね、理名ちゃんの通う高校って、そこそこ医大への進学率高めだし、合格率も高いよね。

そこに決めた理由、あったりするの?」

拓実くんは、唐突に聞いてきた。
これは、言わなければならないだろう。
本当の理由を。

泣いてしまうかもしれないのだ。
でも、言わなければ、きっと後悔する。

彼なら、分かってくれる。
そんな気がした。

そう思った刹那、口が勝手に開いた。

「母が、医師だった。
もう、子宮頸がんで亡くなったけど。

母親みたいに、なりたかったの。
私のこともあまり構ってくれなかったし、可愛がってくれなかった。

授業参観だって運動会だって音楽会だって来てくれなかった。

それは寂しかった。

だけど、そこまで母を夢中にさせる医療の世界に飛び込んでみたかった。
それが、本音、かな」

「そっか。
辛い記憶の箱を無理やりこじ開けちゃったみたいだね、俺。
ごめん。
聞かなきゃ、よかったね」

拓実くんは、一瞬、顔を曇らせた。

私と彼が座るテーブルにだけ、重い空気が漂っているのが分かった。

周囲の席で交わされる歓談が、やけにうるさく聞こえる。

それに耐えられなくて、お手洗いに行ってくると告げて席を立とうとした時だった。

強めに腕を掴まれて、目の前にあったのは白い布だった。
眼鏡を外されて、左右にぼんやり黒い布が見えた。

「ちょ、拓実く……」


「理名ちゃん、泣きそうな顔してたから、見てられなくて。

そんな顔をさせたのも、俺のせいだから。

俺、見ないから、さ。
いいよ、ここで泣いて」

私は、彼に抱き寄せられていることになんて気づかないまま、声を押し殺して静かに泣いた。

泣いた後は、眼鏡とポーチをを持ちながら化粧室に入って、泣いて赤くなった目元を中心に洗った後、華恋がしてくれたように、とまではいかないが、丁寧にメイクを直した。

「お待たせ……」

「いいえ、どういたしまして」

テーブルの上には、パスタとハンバーグが既に並べられていた。

「食べな?
泣いたからお腹すいたでしょ」

「ありがと。
いただきます」

パスタを一生懸命、スプーンとフォークで食べようと試みる。
時間がかかって仕方なかった。

「理名ちゃん、さ。
そんな、可愛い女の子を演じなくてもいいんだよ?

俺、引かないし。
男の子みたいにサバサバしてて、感情表現がちょっと不器用で。

ほんの少し意地っ張りな理名ちゃんだから、気に入ったんだし。

フォークで食べていいよ。
そんなんで育ち悪い子とか思うくらい、器小さい男じゃないし」

この人は、初対面でどこまで人を見抜いているんだろう。
親友の深月や椎菜、華恋を彷彿とさせるには十分だった。

「気にしないで?
親が医者だとさ、いろいろ叩き込まれるし、勉強もみっちりやらされるの。

医者の基本は、『なるべく初対面の人の何気ない表情の変化、態度の変化、口調の変化、癖を早くに見抜くことだ。
問診をするに当たってはそれが一番重要だ』 とか言われるし。

だからかな、友達からお前は医者ってよりホストに向いてる って言われる」

「医者向きだと思う。

初めて会ったときは髪色が印象的で、ちょっと遊んでそうな人、って思ったけど。

ちゃんと、私が人前で泣くの好きじゃないことも。
それは恥だと思ってるっていうの分かって、わざと人の目から遮ってくれたでしょ?

自分がどう思われるか、とかは二の次にして。

自己犠牲精神、医者にピッタリだし。

拓実くんのそういうところを見て、きっと両親が思ったんだよ、『医者向き』だって。
だから、いろいろと叩き込んだ。

立派な医者になってほしいから。
……ちゃんと親に大切にされているのが、よく分かるよ」

「……ありがとう、理名ちゃん。
理名ちゃんと今日話が出来て、よかった」

私は、その時、彼の心からの笑顔を見て、とてもとても眩しく感じた。