「えっ⁉︎ 前島さんですか?」
午後のひとときを、たまに事務所で過ごすことがある。長年教師をしていた私にとって、ここが一番の落ち着く場所なのだ。
「そう。なぜ雇ったのかね」
何処か訳ありな感じに見えたから、何気なく聞いてみた。
松田さんはコーヒーを入れ、テーブルに置くと話しだした。
「そうですね…まずは知識と経験と資格があるという点でしょうか。十年以上大きな施設で働いてきて、いろいろな方を見てこられてます。ここはどちらかと言うと、そういうしっかりした経験者がおりませんから、彼女がいれば安心かなと思いました」
さすがは元ベテラン看護師だ。ちゃんと見ておる所は見ておる。
「でも一番はやはり、中を案内している時の彼女の表情かしら…とても嬉しそうでした。子供のように目をキョロキョロさせて、ここが素晴らしい所だと言ったんです」
何を思い出したのか、くすくすと笑う。
「なんだい。どうしたのかね?」
こっちまでウズウズしてくるような笑い方だ。
「前島さんね、面白かったんですよ。見学し終わって、余程興奮してたらしくて、自分から働かせて欲しいって言い出したんです。そんな人、初めてでした」
嬉しかったから即採用したと松田さんは語った。
自分から雇って欲しいと言った前島さんの気持ちはよく分かる。あの子もきっと私と同じで、ここで探していた何かを見つけたに違いない。
「松田さんは、また一人、いい人を見つけたね」
ニッコリ笑って頷く。いい人材が集まると言うことは、それだけ経営者が良いという事だ。

この二年、職員が増えても辞める者がないというのは、その証拠だろう。
週数日通っている利用者の中には、毎日来たいと言う者もいる。前島さんを雇ったことで、これからはそういった方のニーズにも応えられると、松田さんは経営者らしい一面も見せていた。

「コーモン様、おやつの時間ですよ」
デイサービスの責任者、大蔵さんのお呼びがかかった。
芸達者な彼女は、私を時代劇のご老公のようだと言い、去年は敬老会の劇にまで担ぎ出した。
おかげで『コーモン様』とあだ名までつけられ、今や他の利用者や子供らにまでご老公扱いを受けている。
(やれやれ、それも悪くはないがな…)
「今、行きますよ」
どっこいしょ…。やれ足腰が弱った。とんだ御老体だ…。

「今日のおやつ担当は玉野さんでーす!美味しいおからクッキーを作ってくれました!」
皆の歓声が上がる。ここのおやつは手作りで、毎日美味しい物が出てくるから楽しみなのだ。
(おからとは珍しいな…どれ、頂いてみるか…)
口に入れると、ほろっ…と優しく崩れた。おからが入っているという割にはぼそぼそもしておらず食べ易い。
「このクッキー、不思議としっとりしてるわね。何が入ってるの?」
利用者の一人、宿利(しゅくり)さんという婆さんが尋ねた。この人は昔、食堂を経営していたらしい。
「練乳です。砂糖代わりに入れてみました。おからだけだと、パサパサしそうだったので」
「へぇ…。それで少しミルク風味なのね…」
元料理人だけあって鼻も舌も敏感だ。こういう利用者がいると、作る方も何かと気を遣う。
「美味しいよ」
単純に褒めた。子供らも美味しい美味しいと、サクサク食べている。その様子に、玉野さん自身もご満悦だ。
この子はまだたった二十一か二くらいなのに、何でも熱心にやっていて手抜かりもない。実に感心な娘さんだ。
「玉野さん、この調子で僕にクリスマスケーキ作って下さい!」
保育部の責任者、藤堂君が懇願する。三十代とは思えぬ落ち着きのなさに呆れることも多い青年だが、何故か子供受けだけは良くて人気も高い。一見ちゃらんぽらん風に見せてはいるが、やる事はきちんとしていて親切だ。
「頼まれても作りませんよ」
あっさり断られておる。この年の離れている二人は、まるで兄妹のように面白い関係だ。
そう言えばこの藤堂という青年、私にこんな事を聞いてきたことがあった。

「嫁さんにする女性は、どんな人がいいでしょう?」
聞けば母一人子一人の母子家庭で育ち、長年苦労してきた母親を、早く安心させたいと言っていた。
「それならまずは、自分の性格を変えることだね」
外見のチャラチャラした所を改めれば、いい女性と巡り会えると話した。
けれどなかなか思う通りにいかないらしく、今だに独り者だ。
(まぁこの性格じゃあ仕方ないけども…)
口が軽くてお調子者。年の割りに落ち着きもない。余程しっかりした女性でなければ、この男の舵取りは難しいだろう。

「お散歩に行きますけど、コーモン様どうします?」
保育士の宮部さんが声をかけてくれた。自分の受け持つ四、五歳児クラスの子には、外遊びを沢山経験させたいと思っておるらしい。
「今日はやめとくよ。足腰が痛むから」
「あっ…じゃあ私、マッサージして差し上げましょうか?」
玉野さん、そう言って肩に手を置いた。
「すまないね…」
「いえいえ」
嬉しそうにしてくれる。こんな気だての良い娘さんの親というのは、一体どんな感じなのだろう…。