突然現れた天野空良に、私は驚きすぎて声もかけられなかった。
「――」
学生服のままの彼は、夜に見る彼より、少し幼く見えた。
私服の時の方が大人びて見えるものなんだと、今更ながら私は思った。
真正面から制服を見るのも初めてな事に、心の中で感動した。
クラスの違う私は、教室の扉から黙って座っている彼を横目で見るしかなかったから。
でも、どうして、夜じゃないのにここにいるんだろう。
私の疑問を、彼は表情だけで察したようだ。
「家に帰ったら、親父がいたから」
彼が私に近づいてくる。
「あんたは、なんでここにいるの? 学校帰りには遅い」
昼の彼も、夜のように私に話しかけてくれる。
それだけで、さっきまでの寂しい気持ちが消えていく。
「あ、ピアノの帰りなの。帰り道だし、気になって」
「へえ、ピアノ習ってるんだ。だから上手いんだな。いつから?」
「えっと、六歳から」
「六歳って、まだ小学生にもなってないじゃん。そんな小さいうちから習うもんなの?」
「それは、個人差かな。もっと早い人もいるよ。私は、その時、ピアノに出会っちゃったから」
「ふぅん。じゃあもう八年もやってんだ」
「うん」
「飽きないの?」
「――飽きないな。ピアノ、好きだから」
「そっか。そんなに好きだから、ピアノがなくても弾けるんだ。なぁ、さっきのもっかいやってみせて」
そう言って、彼は自然に私の隣に座った。
彼にとっては、興味深いものだったのだろう。
リクエスト通りに、私はスコアファイルの上で指を動かした。
ファイルに当たる乾いた音がリズムだけを刻む。
一番だけを弾き終わると、彼は感心したように拍手してくれた。
「すごいな。ちゃんと弾いてる」
「何弾いたかわかる?」
「あれだろ、『主よ、人の望みの喜びよ』」
私はびっくりした。
「天野くん、耳がいいんだね」
「そうかな。音楽、いっつも赤点だけどな」
そう言って、彼は笑った。
「天野くんは、ここで勉強してたの?」
「あ? ああ。数学解いてた。中間テストの範囲」
「すごいね。私、数学ちょっと苦手だから」
赤点とまでは行かないが、数学はなかなか八十点を超えない。
文系のせいか、理数系はふるわないのだ。
国社英で点数を稼いでいるのは否定できない。
「教えよっか?」
さらっと彼が言った。
「え? いいの?」
「数学なら教えられる。得意な方だから」
私は嬉しくてどきどきした。
昼の彼に会えただけじゃなく、たくさん話して、しかも勉強まで教えてくれると言ってくれたのだ。
「私も、何か教えられたらいいんだけど、天野くん、苦手なのある?」
理科と言われたらお終いだけど、国社英なら、まだ何とかなるはず。
だが、予想外に彼は言った。
「じゃあ、音楽教えて」
「え? 中間には、音楽、ないよ」
「期末はあるじゃん。それまでに勉強しとく」
めちゃめちゃ苦手だから、小学生レベルからな。
そう言った彼の顔が、くしゃっとして可愛かった。
「わかった」
「じゃあ、明日からな。部活ないから、放課後、ここでいいか?」
「うん。じゃあ、私今日はもう帰るね」
あまり遅くなると母親に文句を言われてしまう。
明日からは図書館で勉強すると言わなければ。
「ああ。また明日」
お互いに手を振り合って、私は石段を下りた。
明日も、彼に会えるんだ。
私は嬉しさを隠せなかった。
帰りの足取りが浮かれていたのは否定しないし、する気もなかった。
朝から昼休みも待ち遠しかったけど、放課後はもっと待ち遠しかった。
帰りはメグと優希と中間についていろいろ話したり、他愛ないおしゃべりをした。
私の家が一番遠いので、メグと優希とは途中で別れた。
それから、私は山の上の神社に向かう。
石段を上ると、彼は昨日私が座っていた神社の階の所に座っていた。
「――」
私が手を振ると、彼も手を上げて返してくれる。
「やるか」
「うん。よろしくお願いします」
私も座って、数学の教科書と、ワークを出す。
「特に苦手なとこあるのか?」
「――証明かな?」
「じゃあ、使う公式と基本の型からだな」
教科書とノートを開いてから、彼は説明を始めた。
私の大好きな彼の声が、証明の基本の型を書きながら説明していく。
私は、ノートを覗き込みながら、彼の声を聞く。
聞きながら、自分もノートに彼と同じ証明の型を書いていく。
「天野くん、めちゃめちゃ数学得意なんだね」
「たくさん解いたからな。ここだと時間だけはたくさんあるし、問題解いてると気も紛れるし」
数学の先生が話すことはほとんどわからなかったのに、彼の声で聞くとすんなりと理解できるのはなぜなんだろう。
彼に教えてもらいながら、私は似たような問題を型に当てはめながら順序よく解いていった。
彼は根気強く私に教えてくれ、最後には、試験のヤマをかけているところと、今日家に帰ってから解くといい、証明以外の練習問題まで教えてくれた。
時間にしたら、一時間はあっという間に過ぎてしまった。
「じゃ、今日はここまでな。一日であんまりやりすぎてもわけわかんなくなるから」
「うん。すごくわかりやすかった。ありがとう」
「ホントに? 数学の佐々木が言ってること、そのまま喋ってるだけだけど」
「ホントに? 私、授業中、すごい集中して聞いてるつもりだったんだけど」
微妙な表情でお互いを見合って。
それから。
「――」
私達は同時に吹き出した。
「天野くん男だから、理数系なんだよ。私文系だから、数学とは相性悪いんだ」
「そうかもな。俺もあんま国語とか好きじゃないし。音楽もダメだしな」
芸術に関しては才能ないな、と彼は肩を竦めた。
そんな仕草を見られることも嬉しかった。
男子を見ると、何だか大きくて、怖かったのに、彼といると全然怖くなかった。
会話をしても、どこまでが冗談で、どこまでが本当なのか判断できなくて、なんだか上滑りしていくようでよくわからなかった。
でも、彼には、私の言っていることが通じているみたいだし、私も、彼の言うことがきちんと理解できる。
からかって面白がるような話はしないし、聞いたことにはきちんと答えてくれる。
疑問に思えば聞いてくれるし、私のピアノを認めてくれる。
お世辞で上手いといってくれるのではなく、本当に感心してくれているのが伝わる。
そんな男の子は、彼が初めてだった。
弟とだって、話が通じないような寂しさを覚えたものだったのに。
「じゃ、次は高森な」
そう言って、彼は数学のテキストを脇に置いて、音楽の教科書を手に取った。
「うん」
私も、音楽の教科書を取り出す。
ここからが私の本領発揮だ。
「天野くん、階名読める?」
「『階名読む』って、その言葉からもうわかんねぇ」
「――」
これは手強い。
音楽の教科書を開く。
大抵音楽の教科書には、最後に階名と音楽記号がまとめて載っているのだ。
「ここがわかれば、音楽はそんなに苦労しないよ。階名を読むって、音符を見てドレミを当てはめること。場所が決まってるからすぐ出来るようになるよ」
「ホントに?」
疑わしそうに彼が音楽の教科書を覗き込む。
「五線譜は、下から第一線、第二線、第三線、って数えていくの。線の間は、『かん』っていって、第一間、第二間、第三間って数えるの。ドレミファソラシドの位置が必ず決まってるから。ここがドでしょ。レが第一線のすぐ下。ミが第一線、ファが第一間、ソが第二線、ラが第二間、シが第三線、ドが第三間、っていうように、いつも線、間、線、間って順番に高くなっていくんだよ」
「団子みたいに、線に刺さってんのと、間に挟まってるのって覚えればいいんだな」
「そうそう」
線、間、線、間、と呟きながら、彼はドレミの位置を覚えていった。
もともと勉強は出来る方だから、彼はすぐに階名を読めるようになった。
私は期末に出るだろうページを開いて、彼に階名を読ませたが、さらっと読んでしまった。♭と♯がつく階名の意味もすぐに理解した。
「天野くん、別に音楽出来ないんじゃなくて、やらなかっただけなんじゃ――」
「おかしいな。小学校で教わった時は、全然わかんなかったのに、高森に教わるとすっごいわかる」
そう言われて、嬉しくなった。
私にとっての数学も、そうだったから。
彼の言葉が、私に通じるように、私の言葉も、彼にきちんと通じているんだ。
メグや優希以外に、そう言うことが通じるのが、不思議であり、感動だった。
「じゃあ、次は記号ね」
音楽記号は暗記するしかないから、私が書いたものを彼が当てていくというのを試してみた。
「なんでこれ、ト音記号って言うんだ?」
彼は五線譜に書いたくるりと回転したト音記号を見て、そう聞いた。
「昔はドレミじゃなくて、イロハで階名をあててたの。ドはハ、レはニ、ミはホ、ファはヘ、ソはト、で、ト音記号の書き始めは、五線譜の第2線のソ――つまりトで始まっているからト音記号っていうの」
「じゃあ、ヘ音記号は書き始めがヘ?」
「そう。ファから書き始めるの。ただ、ヘ音記号だと、ドレミの位置が違うから、ファは第3線になるの」
「へぇ、初めて知った」
彼はト音記号とヘ音記号を指でなぞりながら呟いた。
「でも、なんでドがハなんだ? イロハが先だろ?」
「もともと基本の音はラだから。ヴァイオリンなんかは、ラから始まるんだよ」
「そうなのか」
「へ音で譜面が読めれば、両手でピアノ弾けるよ」
「俺でも?」
「うん。へ音は左手用だから。最初は練習が必要だけどね」
「そっか。わかれば、音楽って楽しいんだな」
それを聞いて、ますます嬉しくなる。
私が好きなものを彼も好きになってくれるのは、すごく嬉しい。
「あのね、音楽って、言葉が通じなくても伝わるでしょ。楽典をちょっと覚えて仕組みがわかれば、誰でも楽しめるんだよ。昔は、神様に捧げるために音楽があったけど、今はたくさんの音楽があって、誰でも自由に音楽を楽しめるでしょ? それって素敵な事じゃない?」
「そうだな。高森は名前がもう音楽だもんな」
「え?」
「カノン、だろ」
私は笑った。
「天野くんの名前も音楽だよ」
「へ? ああ、そっか、『ソラ』だもんな」
それだけじゃない。
ソは、本来音の終わり。
そして、ラは五線譜の中心で、音の始まりで、基本の音。
ソラは、終わりと始まり。そして鍵盤の中心にあり、まさに音楽そのものなのだ。
「言い過ぎ」
照れたように笑う彼が、嬉しかった。
彼の声は、私には音楽なのだ。
いつまでも聞いていたい音。
それは、決して言い過ぎではない。