祈りが届いたのか、金曜日の朝から降り出した雨は、夜中には止んだ。
本当は、時々ぱらぱらと降ったり止んだりしているけれど、外に出ても、きっと傘は必要ないだろう。
ここからあの神社までは、早足で行けば五分ぐらいで着くし。
うん。私には、これは『雨が降っている』とは思えない。
心の中で自分を正当化して無理に納得させる。
パーカーのフードを被って、私はまた勝手口から家を出た。
門の外に出ると、
「あ……」
空良が、立っていた。
帽子をかぶって、ちょっと困ったような顔で。
「やっぱり出てきた」
「どうしたの? もしかして、ずっとここにいたの?」
「違うよ。着いたの三分くらい前。微妙な天気だったから、もしかしたら出て来るかもしれないと思ってさ」
「――」
ばれてる。
歩き出した空良について、私も神社に向かう。
「ごめんね。ここまで来させちゃって」
「それはいいけど、キーボードは持ってきてないんだ。濡らすのやだからさ」
「うん。私もそれはいいよ。水曜日まで待つから」
「天気予報見たら、水曜日も微妙な天気だった」
「そうなの?」
がっかりした。
空良は、きっと借り物だからすごく気を遣っているのだろう。
横長のバッグでは、傘に入りきらないだろうし。
どうしたものかと私が頭の中でぐるぐる考えていると。
「うち来る?」
空良が唐突に言った。
「え?」
「親父、今日いないんだ。この時間までいないなら、今日はきっと帰ってこないからさ」
「行く」
私は即答した。あんまり速かったのか、空良は聞き取れなかったようだ。
「え?」
「行きたい。空良のうち」
空良の家は、神社から五分とかからないところにあった。
きっと私の家と同じくらいの距離だろう。
ちょっと古いアパートの二階だった。
コンクリートの階段を上がるとすぐの部屋。
鍵を開けて、空良が先に入って明かりをつけた。
「入って」
静かにドアを閉めてから、
「おじゃまします」
小さくそう言って、靴を脱ぐ。
廊下を過ぎてすぐリビング、右手前にはキッチン、リビングから真っすぐ奥にはドアが一つ。常夜灯だけだったから、うすぼんやりだったけど、大体の間取りは分かった。
「こっち」
空良はリビングの左手前側にあるドアを開けた。
ついていくと、明かりのついた六畳の部屋にベッドと机が置かれていた。
ドアのすぐ脇にはクローゼットがあった。
机の上には、キーボードが置かれていた。
「座布団とかないから、ベッドに座って」
「う、うん」
ドアが閉まる音で、私は緊張していることに気が付いた。
こんな時間に、空良と二人きりで部屋の中にいるなんて。
これよりも狭い小屋の中でずっと二人でいたこともあるのに。
夜だからなのかな、こんなにドキドキするのは。
でも、私の緊張をよそに、空良は帽子を取ってすぐにキーボードの置いてある机に向かった。私も慌てて近づく。
ベッドに座ると、ピアノに向かう空良が横から見えた。
「なんかさ、机に置いたら弾き辛かったから、椅子を高くしてみた」
「あ、それは正解。ピアノの椅子も高さを調節するから」
確かに、机についている椅子がぎりぎりまで高くなっていた。
「とりあえず右手からな」
「うん」
「間違っても笑うなよ」
「笑わないよ」
キーボードを貸してから、まだ三日も経ってない。
そんなに上達するはずがないのは、私にだってわかる。
だが。
予想に反して、空良は手の形を崩すことなく、ミスタッチもなく、さらりと弾いてしまったのだ。
さらには、左手も。
「上手いよ……」
私には、それしか言えなかった。
俯き加減の私の隣に座って、空良が覗き込む。
「褒めてんのに、何で不満そうなの?」
「だって、私が教えることないじゃない」
「?」
「空良の数学の教え方、すごく上手かったから。ずるいよ。私も上手に教えたかったな」
数学がわかった時の、あの感動を空良にも感じて欲しかったのに。
不満と言うよりがっかりした私を、空良は不思議そうに見ていた。
「花音が教えんの上手だから、俺、今、上手く弾けてんじゃないの?」
「え? あ、そうかな?」
上手と言われてあからさまに声の調子が上がった。
「私の教え方、上手だった? 目が覚めるくらい?」
空良が笑う。
「ホント、変なやつ」
空良が笑ってくれたので、私も笑い返した。
だって、嬉しいのだ。
空良とこうしていられる時間が。